目黒通りから桑原坂へ入る。
坂下から細い路地に入り南西へ進む。
木造釈迦如来 及 阿難(あなん)・迦葉(かしょう)像
瑞聖寺は、黄檗(おうばく)宗寺院として江戸において初めて建立されたものです。開基は青木甲斐守重兼で、黄檗宗を日本に開宗した中国僧隠元の弟子である木庵性滔が開山として招請され、寛文十一年(1671)に落成しました。
本尊釈迦如来坐像(寄木造)は、体部背面に金泥で記した「寛文十一辛亥」の銘があり、瑞聖寺開山の時の造像であったことがわかります。また、頭部内刳面に「音羽仏師祐運次郎兵衛」の墨書銘があり、京仏師の作とわかります。
両脇侍の阿難・迦葉立像(寄木造)も、釈迦如来像の一具像として、保存もよく、伝存するのは貴重です。
中国明時代の様式を伝えた、区内における稀有の作例として貴重です。
瑞聖寺大雄宝殿 附 通用門一棟
紫雲山瑞聖寺は、江戶で最初の黄檗宗の寺院で、寛文十年(1670) から建設に着手し、翌年諸堂が完成しました。創建伽藍は享保十一年(1726)と延享二年(1745)の二回の火災で大きな被害を受けましたが、文化年間(1804~18)に再び整備されました。
大雄宝殿は黄檗宗寺院の中心的建物で、身舎(もや)の外側に裳階(もこし)を廻らせ、身舎の屋根は入母屋造、本瓦葺で、寺格にふさわ
しい雄大な規模を持つ黄檗建築の仏殿です。棟札から宝暦七年(1757)の再建と推定され、その後、何度か修理が行われました。二重屋根の外観や細部意匠に黄檗建築の特徴を保ちながら、組物の簡略化、正面吹放(ふきはなち)部分の化粧軒裏天井、背面一間通りの吹放、内部の両脇に畳敷床を設けるなどの特徵があり、江戸市中に残された数少ない本格的仏堂建築として貴重な存在です。昭和六十年(1985)から六十三年にかけて解体修理が行われ、仏壇回りを除いて往時の雄大な姿が再現されています。
山門1
こちらから階段を上がったところにフェンスがあり、境内に入ることができない。
今里村の地名のひとつである。その起源について 特別の説は残っていない。
◆古地老稲荷神社
すぐ隣が八芳園。
昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷さまは「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」の強いご神託より、文政十三年、日吉坂上に鎮座されたもので、しかも縁日には霊妙不可思議にも必らずといってよいほどに雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りしました。この境内に、大正四年六月石刻連名の方により、遷宮され、ご神託どおり歴史に出火のないこと、わけても大正十二年九月一日の関東大震災にも第二次世界大戦空襲にも、火災を免れたのは祭神の御利益と信仰し、昭和二十年迄は、神前に神楽、余興を奉納し、盛況でありました。現在白金台崇敬会により左の神事が行われております。
◆八芳園
桑原坂下から撮影。
右側が八芳園の敷地。
中は見学できるみたいなので、今度おじゃましてみよう。
三田上水は、江戸市街の拡大で増加した水の需要に応じるため、寛文四年(1664)に玉川上水の水を下北沢で分水したものです。
中村八郎右衛門,磯野助六によって開かれたといわれ、代田、代々木、渋谷、目黒を経て現在の白金台、高輪、三田、芝地区に配水されました。享保七年(1772)に学者室鳩巣の意見で本所(亀有)、青山、千川の各上水とともに廃止され、江戸の街を潤す水道は玉川、神田の両上水だけとなりました。しかし、三田上水は流域の村々の農業用水でもあったの で、嘆願して廃止の翌々年から再び水を引くことを許され、三田用水と呼
ばれて一宿十三ヵ村の用水として使用されました。
当時の水道は自然に流れるだけでしたので、この付近では堤状に水路を残して通す工夫をしました。ほとんど失われてしま
った三田用水路の貴重な遺構は、特に断面がわかるように残されています。また、水路の通っていた位置を示すための色違いのタイルを地上に並べて記念としています。
◆ベラルーシ共和国大使館
『ベラルーシ共和国(ベラルーシきょうわこく、ベラルーシ語: Рэспу́бліка Белару́сь、ロシア語: Республика Беларусь)、通称ベラルーシは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。日本語では白ロシア(はくロシア)とも呼ばれる。東にロシア連邦、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。首都はミンスク。』
ベラルーシ - Wikipedia
続く。