2020/09/26 赤坂散歩 03 赤坂氷川神社

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赤坂氷川神社




 この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。
 江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(1730)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。



御祭神
  素蓋鳴尊(すさのおのみこと)
  奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
  大己貴命(おおなむぢのみこと)
 主祭神の素蓋鳴尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治されたことから、悪しきもの、「厄」を載う力がお強い神様です。また、三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」=草離の剣(くさなぎのつるぎ)」を発見されたことでも有名です。
 二柱目の奇稲田姫命は、素蓋鳴尊が八岐大蛇を退治されたときに救い出され、後、二柱の神々はご結婚されたことから、夫婦神としてお配りしております。
 三柱目の大己貴命は、またの名を大国主命(おおくにぬしのみこと)といい、あらゆる緑(えにし)を結ぶことから、緑結びの神様として、古より全国で崇敬されております。
 この三柱の神々をお配りしていることから、特に厄除け·良緑(緑結び)の御神徳が強い神社とされてきました。

起源
 天暦 五年(951年)武州豊島郡一ツ木村(人次ヶ原)に配られ、一千年以上の歴史を有します。創和から百年後の治暦二年、関東に大旱魃が発生、降雨を祈願するとその験があり、以来よく祭事が行われました。
 江戸時代に入り、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元年(1716年)将軍職を継ぐに至り、同十四年(1729年)に老中岡崎城水野忠之に命じ、現在地(忠臣蔵浅野内匠頭の夫人、瑤泉院(ようぜんいん)の実家 浅野土佐守邸跡)に現社殿を建立、翌十五年(1730年)四月二六日に遷座が行われ、二八日に将軍直々の御参拝がありました。以降、十四代家茂公まで、歴代の朱印状(港区文化財)が下附されました。
 明治元年明治天皇より、東京の鎮護と万民の安泰を祈る「准勅祭社」として定められました。現在では、東京十社の一社となっております。

社殿・境内
 総標造り銅葺朱塗にして、丹青荘重の一間社流造の現社殿は、安政の大地震関東大震災東京大空襲等の被災を奇跡的に免れ、建立当時のままの姿を残し、東京都重要文化財にも指定されています。昭和四年遷座二百年を祝し、拝殿格天井には、長華崖(ちょうかがい)による「花鳥」が、壁間には宮部衆芳による「鳳凰」が描かれています。
 境内には至る処に江戸の年号が刻まれた鳥居・燈籠・狛犬が数多く残り、江戸の情景がそのまま残る、都内では珍しい神社の一つとなっています。また、秋には色鮮やかな紅葉に染まる天然記念物の大銀杏(樹齢四百年)がある他、江戸150万人の生命と財産を守った幕末の志士、勝海舟が名付けた「四合稲荷(しあわせいなり)」もお祀りされています。

祭礼
例大祭・・・九月十五日(神幸祭例大祭に近い日曜日に行われます)
 江戸時代、最盛期の祭礼では、幕府の監督下のもと、宮神興二基と江戸型山車十三本、さまざまな附け祭りが氏子地域を巡行し、江戸で
三番目に位置付けるほどの規模でした。
 現在の神幸祭では、徳川吉宗公将軍就任三百年を機に、平成二八年に新調した宮神輿、氏子町会の神輿の他、江戸から奇跡的に残存してい
る江戸型山車が連合巡行し、都心の高層ビルを背景に、江戸絵巻が繰り広げられています。






◆浅野土佐守邸跡

 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は、寛政九年(1632)に安芸国広島藩から5万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
 元禄十四年(1701)三月十四日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収となりました。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し瑤泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(1714)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起った時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため、享保三年(1718)に断絶となり、遺領は広島藩へ還付されます。享保十五年(1730)、現在の赤坂4丁目からこの地へ氷川神社遷宮され、今日に至っています。






◆九神社






◆山口稲荷







◆桶新稲荷






◆四合(しあわせ) 稲荷神社



・御祭神
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)ー食物の神、殊に稲の神
・御縁起
 ①古呂故(ころこ)稲荷 (赤坂一ッ木二番地、古呂故天神社境內に鎮座)
 ②地頭(じぬし)稲荷 (氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
 ③本氷川稲荷(本氷川神社薩接、別当盛德寺の地内に鎮座)
 ④玉川稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合(しあわせ)稲荷』と称えられる。
 大正十四年に、鈴降(すずふり)稲荷神社(赤坂一ッ木町に鎮座)及び、縁起稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」と いう扁額が、現存する。
・附記
 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境內へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
 本氷川稲荷神社は、本氷川神社 (昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする說もあるが、御神体玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境內に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。







西行稲荷神社



 文政(1816~1830)年間、町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地內に古来からあった祠堂で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝(こうはい)がありました。
 勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町五丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂を通行中、甲冑を带し弓箭(きゅうせん)を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、 これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。
 明治以後、町の発展に伴い、大正十年(1921)九月氷川神社境內に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除の御神德があると称されております。






◆「?」

何かが祀られているんだろうけど・・・・。






◆包丁塚



そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覺の境地におそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損いし刃物は和洋を問わず數多なり、そを情あつき人々相つどい組合設立二十五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり






◆天然記念物 氷川神社イチョウ



 目通り(地上1.5mルの高さ) の幹径約2.4m、幹周約7.5mを測る推定樹齢400年の巨樹である。
 氷川神社の記録をはじめ記載された史料はないが神社が現在の地に建立された享保十五年(1730)には、すでに100年を超える樹齢を有していたこととなり、それ以前からこの地で成育していたと考えられる。
 イチョウは、生きた化石とも言われ、一億五千万年前には地球上のいたるところで生い茂っていた。氷河期に絶滅しかけたが、中国大陸南東部に残っていたものが、日本に渡ってきたといわれる。落葉性の大木で成長も早く、高さ30mにも成長する。雌雄異株であり、この木は雄株である。
 港区内に現存するイチョウでは最大である善福寺「逆さイチョウ」(国指定天然記念物)に次ぐ大きさと樹齢を保っている貴重な樹木である。






氷川神社の石灯籠(4基)

 門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一〜二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)閏四月に奉納したものです。氷川神社徳川吉宗産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。

 門外の2基は、遷座の年に岡崎城水野忠之が奉納したものです。水野忠之徳川吉宗が行った享保の改革の前半を主導した老中です。幕府財政の建て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。岡崎藩水野家は吉良邸討入後の赤穂浪士9人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。


どの4基が文化財の石灯籠なのかわからなかった。

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◆苗村翁頌徳碑

碑文を読むのを諦め・・・・。
webで調べた。
苗村又右衛門
日本セメント株式會社取締役、株式會社東海銀行取締役兼赤坂支店主任、質商 とあった。
苗村又右衛門 (第4版) - 『人事興信録』データベース







◆楼門






◆鳥居1






◆鳥居2






◆鳥居3






◆参道(階段)






◆参道入口









続く。