まだまだ細い路地を西へ進む。
◆庚申塔
◆高松富士浅間神社
中へは入れなかったので外からお参り。
境内社
こちらも外からお参り。
◆豊島長崎の富士塚
上記、高松富士浅間神社すぐ隣。
ここも中へは入れなかったので外からお参り。
富士塚は、富士山を神の宿る場所として信仰する人々の集まりである富士講によって、 江戸時代後期以降、 主として富士登山が困難な人々のために、 江戸とその周辺地域に築かれた。富士講は、 角行(かくぎょう)を開祖とし、 江戸時代中期には身禄(みろく)によって広められ、 最盛期には江戸八百八講と称されるほどの講が結成されて、代表的な庶民信仰の一つとなった。
豊島長崎の富士塚は、富士講の一つである豊島郡長崎村の月三椎名町元講の人々によって築造された。塚内には文久2年(1862) の銘記がある碑などが 10 基あり、これらが最も古く、「当山再建」 と刻まれた碑も含まれていることから、この年に築造されたと考えられる。
塚は、高さ約8m、直径約21mで、 表面は富士山の黒ボク石 (溶岩)でおおわれている。 塚内には、頂上に大日如来坐像、山腹に小御岳石尊大権現碑、烏帽子岩奉献碑、合目石、講碑、石么、天狗像、御胎内などが配置され、約 50 の石造物群で構成されている。また、 塚の東にある浅間神社では、かつてお焚き上げが行われており、奉納された数多くの講碑からは長崎村の人々の富士信仰の強さと、近隣地域の人々との交流をうかがい知ることができる。
都区内にある江戸時代築造の富士塚の中では、 原形を最もよく保ち庶民信仰の様相を示すものとして重要であるという評価から、昭和 54 年5月 21日に重要有形民俗文化財に指定された。
◆富士浅間神社境内児童遊園
豊島長崎の富士塚前は公園になっていた。
続く。