2021/05/07 南千住散歩 04 千住大橋・八紘一宇の碑/千住の河岸/南千住熊野神社/天王公園/米倉屋敷跡/橋本左内の墓旧鞘堂/荒川区立荒川ふるさと文化館

また千住大橋隅田川を渡る。
千住の河岸から細い路地に入り南下する。



千住大橋・八紘一宇の碑




 ”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康江戸城に入って4年目の文禄3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。
 当初は、ただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。
 江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。
 奥州・日光・水戸産街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、30余藩の大名行列がゆかう東北への唯一の大橋であった。
 松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところも、ここである。
 現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和48年(1973)、新橋がそえられた。



 文禄三年(1594)、徳川家康 が江戸に入った後、隅田川 に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、200m程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
 千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉 もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果 の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜 の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
 現在の鋼橋は、昭和二年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳 の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、400年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。


八紘一宇の碑

今まで2回、「八紘一宇」について記事にしている。
2017/04/25 築地・銀座散歩 築地橋/築地小劇場跡/八紘一宇の碑/宝珠稲荷神社/朝日稲荷神社 - ovanの社会科見学
2020/11/16 石神井公園散歩 08 下石神井天祖神社/祠/小祠/向三谷公園/庚申塔/石神井住宅団地住宅展示場 - ovanの社会科見学









◆千住の河岸

 江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して高瀬舟で運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(『両岸渡世向書物』荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。
 材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化二年(1845)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。










◆南千住熊野神社



 創建は永承五年(1050)、源義家の勧請によると伝えられる。
 大橋を荒川(現隅田川)にかける時、奉行伊奈備前守は当社に成就を祈願し、文禄三年(1594)橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行なった。以後、大橋のかけかえごとの祈願と社殿修理が慣例となった。
 また、このあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並んで川岸とよばれ、陸路奥州道中と交差して川越夜舟が行きかい、秩父・川越からの物資の集散地として賑わった。









◆天王公園



こちらはなんだろう?
お分かりの方がいらっしゃたら教えてください。
ぺこ <(_ _)>










◆米倉屋敷跡

 宝永四年(1707)、当時下野国(栃木県)皆川藩主であった米倉計昌照が、この地に下屋敷を拝領した。享保十六年(1732)、屋敷の北側部分が相対替えで、屋代氏の所有に移り、残りの南側部分も、翌享保十七年(1733)に上知(幕府が屋敷地を収公すること)となり、米倉氏はわずか20数年で、この地を去ることになる。
 北側部分は、さらに土屋氏・池田氏・曲淵氏の屋敷地となるが、現在でも、この天王公園のあたりは、土地の人々から「米倉屋敷」とも呼ばれ、親しまれている。



上記「天王公園」内にあった。









橋本左内の墓旧鞘堂



橋本左内の墓旧鞘堂復元と福井県との交流を記念して
橋本左内の墓旧套堂」(区登録有形文化助財〈歴史資料〉)は、もと回向院(南千住五丁目)の境内入口にあったものです。
 平成十八年、同院の境内整備の際、荒川区に寄贈されることになり、同二十一年、ここに復元・保存されました。
 南千住には、この套堂ばかりではなく、福井県ゆかりの史跡や幕末の史跡が多く所在しています。回向院境内北側に新たに設けられた史跡エリアには、福井藩橋本左内の墓、小浜藩梅田雲浜(うめだうんぴん)の墓があり、また、同院内には、小浜藩杉田玄白らの「ターヘルアナトミア」の翻訳と「解体新書」の刊行を記念してつくられた観臓記念碑があります。これらは、地域の人びとにとって身近なものであり、福井県にとっても重要な史跡となっています。
 多くの方々のご協カを得て、この地に復元が叶った今、「橋本左内の墓旧套堂」は地域の歴史を伝えるモニュメントとして、また荒川区福井県との交流の場として、新たなスタートを切ることになりました。



橋本左内の墓旧套堂
 この套堂は、昭和八年(一1933)に橋本左内の墓(区登録有文化財〈歴史資料〉)を保護する(納める、覆う)ために造られた建造物です。大正十二年 (1923)の関東大震災後に耐震性と不燃性の観点から注目されるようになった鉄筋コンクリート造で、規模は方一間(柱間1.94m)、宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根、軒裏(のきうら)および柱・梁(はり)等の軸部には、表面に人造擬石洗出(じんぞうぎせきあらいだし)・研出(とぎだし)仕上げを施しており、伝統的な建築の意匠と近代的工法との折衷を図った近代仏教建築といえます。もとは回向院(南千住五丁目)境内入口にありましたが、平成十八年、套堂のみ区に寄贈され、同二十一年、ここに復元されました。
 当時、套堂の施主となったのは、橋本左内を追慕し、遺徳を広く発揚することを目的として、明治三十五年(190)に設立された景岳会(ふがくかい)で、事務所は福井県出身の学生を育英するため設けられた輔仁会(ほじんかい)内に置かれました。設計には、同会会員で建築家でもあっ原田正があたり、歴史学者黒板勝美(くろいたかつみ)(古社寺保存会委員・東京帝国大学教授)に助言を求め、日本建築史を体系化した建築家伊東忠太(東京帝国大学教授·史蹟名勝天然記念物保存協会評議員)の監修を受けています。また、正面に据え付けられた陶製の橋本家の家紋のデザインは、福井県出身で、日本の陶彫のさきがけとして知られる沼田一雅(ぬまたいちが)(東京美術学校教授)によるものです。当代一流の学者の知識·技術·感性が結集した近代の貴重な文化財といえます。









荒川区立荒川ふるさと文化館

こちらは以前訪れたことがある。
今回は中に入らなかった。
2016/06/30 part2 素盞雄神社/荒川区立荒川ふるさと文化館 - ovanの社会科見学


奥の細道矢立初めの地 アートペイント画



千住の旅立ち」
ー|南千住の地から奥の細道へ旅立つ様子を描くー
 松尾芭蕉奥の細道矢立初めの句「行春や鳥啼魚の目は泪」と詠んだ旅立ちの場面を表現しています。
 荒川ふるさと文化館で所蔵している「鼇頭(ごうとう)奥之細道」の挿絵を参考に、弟子たちや江戸の町との別れを惜しみつつ江戸の境界・千住大橋を渡っていく芭蕉と弟子の曽良を3Dアート作品として描いています。


瑞光小学校跡

 明治十九年(1886)、当時の北豊島郡長本橋寛成の勧めにより、千住南組の戸長、渡辺太三郎および、川村治兵衛・田中午太郎などの有志が、公立瑞光小学校の設置願を東京府知事に提出した。寄付金を募集して建設資金にあて、翌二十年(1887) 十二月に開校した。南千住地域では最初の公立小学校だった。五つの教場を構え、 当時としては豪華な校舎であったという。大正時代初期、南千住一丁目に移転した。跡地はいくつもの学舎の変遷を経て、平成十年五月には区立南千住図書館・荒川ふるさと文化館が開館した。瑞光小学校の跡地にあった学校は次の通りである。
・第一瑞光小学校 大正九年~昭和二十一年
・第二中学校 昭和二十五年~昭和三十三年
・都立上野高校荒川分校 昭和二十五年~昭和三十五年
・都立荒川高校 昭和三十五年~昭和三十八年
・南千住中学校 昭和三十四年~平成元年
(「荒川区教育史」による)



荒川千住 芭蕉主従に 花の春


夢幻

浦山一雄氏が制作したとのこと。
紹介ページがあった。
夢現/荒川区公式サイト









続く。