2021/12/09 日比谷散歩 03 農産陳列所・蚕病試験場跡/鹿鳴館跡/華族会館跡地/薩摩鹿児島藩島津家中屋敷跡/市政会館/日比谷公会堂/内幸町交差点

日比谷公園周辺から新橋駅へ向かう。




◆農産陳列所・蚕病試験場跡



 明治政府は農業振興のため1874年(明治7年)、內藤新宿勧業察出張所(現在の新宿区)に蚕業試験掛と農業博物館を設立しました。蚕業試験掛では蚕糸業の振興 と蚕病研究を目的として試験や研究が行われ、 博物館では産物や農業関係の物品を収集.展示しました。1883年(明治16
年)、麹町区内山下町(現在地)に博物館の業務を継承する農産陳列所が設置され、その翌年に農南務省農務局の一分課としてる病試驗場が設置されました。その産物の他、関係の図書なども含めて5,000点近くが展示されていました。
 1886年(明治19年)に北豊島郡滝野川村西ヶ原(現在の東京都北区)へ移転して農務局蚕業試驗場、東京高等蚕糸学校となり、研究が続けられました。さらに1940年(昭和15年)、北多摩郡小金井町(現在の小金井市)へ移転し、戦後に東京農工大学繊維学部(現在の東京農工大学工学部)となり現在に至ります。











鹿鳴館



 ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった
 その中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった











華族会館跡地



現地には説明版など見当たらなかった。
google mapのマークは上の写真の場所当たり。

鹿鳴館(ろくめいかん)は、1883年(明治16年)に日本の外務卿井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である。
国賓や外国の外交官を接待するため、外国との社交場として使用された。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。欧米諸国との間の不平等条約を改正する狙いがあったが、1887年(明治20年)に条約改正の失敗で井上が辞職したことで鹿鳴館時代も終わりを告げ、1890年(明治23年)からは華族会館として使用されるようになった。1941年(昭和16年)に取り壊された。』
鹿鳴館 - Wikipedia

と、あったので、上記の鹿鳴館跡と一緒でいいんだと思う。

『一般社団法人霞会館(いっぱんしゃだんほうじんかすみかいかん)は、旧華族の親睦団体。前身は華族会館(かぞくかいかん)。1947年(昭和22年)の華族制度の廃止により、霞会館(かすみかいかん)と名称を改めた。所在地は霞が関ビルディング34階。 』
霞会館 - Wikipedia

調べると奥が深そうだね・・・・。











◆薩摩鹿児島藩島津家中屋敷



現地には説明版など見当たらなかった。
古地図の○の部分が上の写真のところあたり。
読みづらいが、「薩摩鹿児島藩」「松平薩摩守斉彬」「島津七十七万八百石」
とあった。











市政会館



市政会館(しせいかいかん)は、東京都千代田区日比谷公園内に位置する鉄骨鉄筋コンクリート構造の多目的建築物。公益財団法人後藤・安田記念京都市研究所が本拠としており、かつて同盟通信社や、その後身の時事通信社が本社を置いたことで知られる。東京都選定歴史的建造物である。』
市政会館 - Wikipedia











日比谷公会堂

日比谷公会堂(ひびやこうかいどう、Tokyo Metropolitan Hibiya Public Hall)は、東京都千代田区日比谷公園の中にある公会堂で、多目的ホールとしても使用される。耐震性に問題があり改修のため2016年から休館しているが改修着工の見通しは立っていない。』
日比谷公会堂 - Wikipedia











◆内幸町交差点











続く。