24時間勤務アケで、一度家に帰ってから、虎ノ門を散歩。
その後いつもの見学隊メンバーと合流。
愛宕神社、NHK放送博物館、日本の酒情報鵜間を巡って新橋で反省会。
虎ノ門駅の展示施設
江戸城外堀普請と虎ノ門
この図は、発掘調査で判明した江戸城外堀跡をもとに江戸と現代の地図を重ねたものです。 この図によって、虎御門が現在の虎ノ門交差点付近に位置し、 東の街区がかつての外堀となり、 当敷地三カ所の石垣や櫓台石垣は外堀西岸にあることを読み取ることができました。 四神相応の大道を表す 「白虎」に由来するといわれる虎御門は、かつて外桜田門から続く小田原道が通っていたといいます。 外堀に唯一ある櫓は、門とともにこの街道を守る拠点であったとも考えられます。
また、当地周辺では外堀に面して延岡藩内藤家の屋敷が、対岸の金比羅神社は、 讃岐丸亀藩京極家屋敷内にあった社であることがわかります。
このように、 遺跡発掘調査によって江戸城外堀跡が明らかとなり、そこからまちづくりの歴史を学ぶことができます。
①中庭部の石垣
延長約35m 7段(高さ4.5m)の石垣が残っている。 この地点は、 九鬼久の築いた地点と多くの大名によって築かれた場所に該当する。現地に公開中である。
② 地下鉄部の石垣
延長25m 15段程度 (高さ約7.4m)の石垣で、ほぼ築城当時の高さを残している。 この地点は、北端を除き毛利高の築いた場所に該当する。 この石垣は江戸城外堀跡治橋北側の石垣(丸の内一丁目遺跡から出土した石を利用して修復した。
③旧教育会館の石垣
延長9.5mで2段の石垣である。この石垣は、江戸時代のものではないが、石垣下には旧来の石垣が残り、史跡指定されている。 この地点は、 池田長常が石垣を築いた場所である。
④櫓台跡の石垣
櫓とは要所を見張るための建物をいい、江戸城外濠では唯一ここだけに櫓があった。この地域が江戸を防備するうえで重要な地であったことを示している。現在も国史跡として保存されている。
江戸城外堀普請(土木工事の技術)
外堀は城の防御のための重要施設であることから、 普請には当時の土木工事技術の先端が使われています。
以前は工事現場近くの材料で土木工事をしていましたが、 大規模な外堀普請には 「工場」での材料製作、 材料の工場から現場までの 「運搬」、 現場での 「施工」 という流れで現在の工事と同じように、 分業化された効率的な工
事が行われました。
「工場」の伊豆の石切場では効率的な施工を考慮し規格化された石を加工しました。 「運搬」 には場所に応じて、 経験則から力学を応用した船や道具で行いました。 「施工」 は高い石垣を築くために断面形状を工夫して行いました。
また、これらの様子は 「築城図屏風」 などに描かれ、 都市を造る土木工事の活気を伝えています。
石材運搬
江戸に運ぶ石は、 波打ち際に停泊している筏に積み、沖に固定されている石船まで運ぶ。この筏から大きな石船に積み替えるには、巻込み用のろくろ船によって移動した。
石材の規格化
近世の石垣は、古くは「野面積」という自然石を使い勾配の緩やかであった。 次第に加工石材を用いるようになると、急勾配の高石垣を造れるようになる。 江戸城外堀石垣は、多くの大名が大量に石を切り出して積まなければならないため石材は規格化され、効率的に工事を進める技術や体制が熱成していった。
高い石垣を築く技術
江戸時代の石垣技術書には、 高石垣を安定させるために上へ行くほど急勾配になるよう「反り」を入れた設計図がある。 この石垣の設計図は、現在の構造計算結果による安定曲線と近似している。こうした技術は、当時の経験則から培われたものであった。
江戸城外堀と近代の東京
東京は、いうまでもなく江戸の城下町から発展した都市です。 その中心である江戸城は、慶長9年(1604) から寛永13年 (1636) にかけて造られた近世最大の城郭です。 なかでも江戸城外堀は、築城の最終にあたる大工事で、これによって城下町を取り囲む延長約14kmの惣構が完成します。
明治維新後は、江戸の防御施設である外堀は役目を終えて一部は埋められていきますが、 今も道路や鉄道網など都市の骨格に利用されています。
この図は、江戸城の痕跡や江戸の町割りを現代の街区に重ね合わせたものです。 この図から地形を巧みに利用して江戸城外堀や町がつくられ、それが現代の東京に引き継がれていることがよくわかります。
①溜池落口
江戸城外濠南方の端には堰を設けて築いた溜池があった。ここは江戸初期の上水濠でもあり、かつてはこの堀から滝のように水が流れていたが、今は埋め立てられている。
②虎ノ門
虎ノ門交差点南方には、江戸城外郭門の一つの門があっ四神相応の白虎にするなどの説がある奥の高台は、かつての延岡藩内の屋敷である。
③当ky法市街鉄道(幸橋付近)
かつての江戸城外(外濠沿いに走る鉄道高架橋である。 大正年間頃の新橋から有楽町駅方面でんで撮影したもので、堤には帝国ホテルかみえる。
④甲武鉄道
四谷 市ヶ谷南の江戸城外濠沿いを走る甲武鉄道●●●●●●●●●●●●●
※写真の撮り方が悪く、判読できなかった(涙
⑤市ヶ谷付近
牛込門から赤坂門までの堀は、国史跡戸城外堀跡として指定されている。 このうち牛込から四谷までは幅が残り、中央線・総武線が走る。
⑥弁慶濠
牛込門から四谷までは神田川の支流、四谷から湿地を経で汐留に至るを利用した。 このは演台のような地形となっている。
史跡 江戸城外堀跡の石垣
正面の石垣は、虎ノ門から続く江戸城外堀の一部です。 この石垣は、寛永13年 (1636) に築かれたものですが、 部分的に不揃いな積み方があることから、数度も改修されたと考えられます。 石垣表面には石を割った矢穴や構築大名を示す刻印がみられます。
もともとこの堀は、 石塁として高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在して残るだけです。 ここでは、 長さ20m 高さ7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部埋め戻して、 変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施しました。
この展示室と旧庁舎中庭石垣では、外堀の堀底および推定される水面の高さを表示し、 正面の石垣は水面からそびえる石垣の姿を再現しました。 当敷地内には3カ所で石垣を公開するとともに、石垣のラインを表示しました。 これによって、 江戸城外堀跡と現代の街区との比較が現地で確認できます。 積替の石は同じ外堀の丸の内一丁目遺跡のものを使用しました。
◆虎ノ門駅前
史跡がいっぱい・・・・・。
google map 「虎ノ門跡」
一つ上の説明でもあるように、この場所に見附があったということで・・・・・いいんだよね?
わけてあるのはなんでだろう?
真ん中の高い建物が文部科学省東館。
手前の低いレトロなレンガ造りの建物が文化庁。
江戸城外堀跡
近代の外堀と霞ヶ関
江戸時代には有力大名の屋敷が置かれた霞ヶ関は、明治3年に旧黒田邸を外務省とし、 明治28年の司法省 (法務省旧本館)が完成すると、 我が国の立法、司法、行政を支える中央官庁街となっていきました。この遺跡では、外堀の堀底に2mに達する土砂が堆積していたことが明らかとなり、明治20年代頃には外堀を幅9mの石組下水溝に作り替えられたこともわかりました。 この地域の江戸城外堀や溜池は、水質の悪化や官庁街として整備する過程で埋められていきましたが、 本地域では、この敷地や日比谷公園などで、 石垣が残り江戸城の面影を伝えています。
江戸城と江戸城外堀跡
江戸城は、慶長9年(1604) から寛永13年 (1636) の約30年を費やして、諸大名の御手伝普請によって築城されました。なかでも寛永13年の江戸城外堀構築は、江戸城築城の総仕上げとして城下町を取り囲むように配置されました。
その範囲は、 国史跡となる牛込・赤坂間の堀や、 雉子橋・常盤橋間の日本橋川を経て、東京駅・有楽町駅東方を通り虎ノ門に至る堀となります。 この堀は、 ほぼ千代田区の外周を巡るように、 総延長約10kmにもおよぶ日本最大の城郭防御施設となり、街道の出入口などには枡形門という形式の石垣で造られた城門が配置されていました。
石垣の刻印
寛永13年の外堀石垣構築は、60家の大名を6組に編成して丁場 (工事区域) を分担していました。 発掘区域は、 岡山藩池田光政を組頭として、東から九鬼久隆、石道惣築 (全員で築く)、 戸川正安、 毛利高直、池田長常の4家が担当しました。 上図でもわかるように工事区域の分担は大名石高によって定められていました。
発掘調査では、 土台によって工事区域を示していたことがわかり、 石垣表面には構築大名を示す刻印が付されるなど丁場ごとに特徴がみられました。 毛利家では家紋の矢筈が付けられ、多くの大名で築いた石道惣築では多種多様な符号が確認できました。 矢筈の刻印は、 伊東市宇佐美にある石材を切りだした丁場にも同じ刻印がみられます。
寛永18年の外堀石垣
この石垣は、 虎ノ門に続く外堀に沿って築かれた、 高さ約9mの石垣の一部です。江戸城では台地と低地の高低差を利用して堀などを築いており、 ここでも堀を境として段差を設けたため、 外堀西岸の石垣は高く築く必要がありました。
石垣の構造は、 根切りという地盤調整の基礎工事を行い、 その上に角材を敷いて角錐状の築石を積み上げています。 築石の構築は、隙間に間詰石を配す「打込ハギ」と呼ばれる技法で横に目地が通る布積みで造られています。また、地下に埋められた石垣根石の前方には根固め石、背面には2mほどの厚さで栗石を詰めて裏込めとし、土を叩き締めた版築も確認されました。これら背面の構造は、 石垣への土圧を軽減して裏からの排水を良くするなど、 その安定を図るための構造となっていました。
江戸城外堀跡の発掘調査
この石垣は、 合同庁舎整備に伴い平成16年度に実施した遺跡発掘調査によって発見されました。 この遺跡は、 江戸城外郭門のひとつ虎ノ門と溜池に挟まれた江戸城外堀の一角にあたり、 外堀に面した石垣が地下に点在して約70m残っていたことが明らかとなりました。
近代以降の市街化によって埋められたこの地域の外堀にあって、これらの石垣は、江戸城の構造を知るうえで貴重な遺構として、国の史跡に指定されています。 庁舎整備に合わせてこれらは保存され、 敷地内の3カ所で公開するとともに、 点線で外堀の位置を示しています。
正面には、 長さ33.5m、高さ4.5mの石垣を部分的に公開しています。
地形を利用した江戸城外堀
この地域は、地形図のように溜池の谷から江戸城東方に広がる低地や入江を望む高台に位置し、周辺には弥生時代の遺跡が立地するなど古くから集落などが開けた場所でした。旧文部科学省庁舎は延岡藩内藤家上屋敷となり、 台地縁辺から谷に至る傾斜地を利用して江戸城外堀を築いていました。
発掘調査では、外堀石垣構築以前の内藤家屋敷跡に関わる溝が発見され、 その一部が暗渠となって堀へ排水していたことがわかりました。 このことは、 寛永13年外堀構築以前にも既に堀があったことを示しています。 こうした発掘調査によって、 歴史史料だけではわからないことも明らかとなりました。
この石は学名を石灰質角礫岩と言石灰石が雨水に溶解して、その石灰分を含んだ水が時には粘着力の強い乳状体となり、地下において小石を集結して次第に大きくなる。
やがてその石が地上に出て、国歌に詠まれているように、千代に八千代に年を経てさざれ石の巌となりて苔のむす、その景観誠にめでたい石である。
全国至る所の石灰質の山に産する石であるが、特にこの石は国歌発祥の地と言われる岐阜県揖斐郡春日村の山中にあったもので、その集結の過程と状態はこの石を一見してよく知ることができる。
春日村は現在、合併により揖斐川町となっています。
◆霞ヶ関
皇居外苑南東端にある外桜田門から港区虎ノ門に至る桜田通りにかけての一帯は、霞が関(昭和四十二年〈1967> に霞ヶ関から改称)といいます。江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門は、江戸時代初期までは遠浅の海 (日比谷入江)に面していました。
霞ヶ関の名前は古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて、 武蔵国に置いた関所 「霞ヶ関」から名付けられたといいます。 その名前は関所から雲霞を隔てた遠方を望むことができるということに由来し、 江戸時代の地図にはすでに、 「霞ヶ関」 と記したものもあります。
江戸時代には、幾多の大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家 (文部科学省・会計検査院霞が関ビル周辺) 筑前福岡藩黒田家 (外務省) 安芸広島藩浅野家(国土交通省周辺) 出羽米沢藩上杉家 (法務省旧本館 ・ 法曹会館周辺) などの上屋敷がありました。
明治維新後、 この一帯は政府用地として利用されます。 一丁目・二丁目は、 明治二十年代以後の官庁集中計画に基づいて、 赤レンガ造りの官庁が林立し、現在の中央官庁街となりました。 警視庁前に残る法務省旧本館の建物はその名残であり、 重要文化財に指定されています。
三丁目には、明治四年(1871) 日本初の官立の工業技術教育機関である工部大学校 (東京大学工学部の前身)が開校しました。 のちには各国の大公使館も置かれ、政治や外交の中心地的印象が強い霞が関ですが、 三丁目一帯は近代産業も芽生え、 発展してまいりました。
◆虎ノ門見附
見附があったんだろうね。
『江戸城三十六見附(えどじょうさんじゅうろくみつけ)とは、江戸城に置かれた見附(見張り番所)のうちの主な36か所を挙げたもの。堀に架けられた橋と一体的に設置されたものが多い。
見附とは、本来、街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所に由来する言葉である。江戸城の見附は、見張り役の番兵が駐在する城門のことを言い、門の内側に番兵が滞在できる番所があった。俗に江戸城には36の見付があったといわれ(江戸城三十六見附)、現在も四谷見附・赤坂見附など、地名として残っている。
実際には、江戸の城門の見張り場所自体はもっと多数あったようだが(66、90など諸説あり)、枡形門を持つ見附は、幕府作事方の資料によると外曲輪に26門あり、内曲輪にいくつあったかは明らかになっていない[1]。語呂の関係から、枡形の26門に、目ぼしい10門を足して「三十六見附」とし、江戸の名所として喧伝されたようである。 』
江戸城三十六見附 - Wikipedia
教育関係者の資質の向上を図り、その指導力の充実を期するためには、不断の研修が必要であり、このために全国の教育関係者を対象とするのにふさわしい研修施設の必要が痛感されたことから、昭和39年6月4日に特殊法人国立教育会館が設立されたものである。
その後、行政改革により特殊法人国立教育会館 平成13年4月1日に解散となった。
この碑は、特殊法人国立教育会館の門表であり、元文部大臣灘尾弘吉氏の揮毫によるものである。
千代田区指定文化財
1993年(平成5年) 4月1日指定
1873年(明治6年)、 この地に工業分野における人材育成を目的とした工学校 (工学寮内に設置) が開校します。 1877年(明治10年)には、 工学察が工部大学校と改称されました。 工部大学校では、 土木 機械 造家などの学科が諸外国から招聘された外国人教師によって教授されました。
1886年に帝国大学と合併し、 本郷 (現在の文京区)に移転します。跡地は、帝室博物館などに使用されますが、 1923年(大正12年)の関東大震災で建物は倒壊してしまいました。
そこで、工部大学校出身者たちは、倒壊した建造物の煉瓦などを利用して、 1939年(昭和14年)に「工部大学校趾碑」を建設しました。 この碑は、日本最初の工業技術教育機関が設置された場所とともに、関東大震災による被災の歴史を伝えています。
◆虎ノ門事件跡
現地では説明版など見当たらなかった。
google mapのマークは上の写真のところあたり。
『虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年(大正12年)12月27日に、東京都東京市麹町区虎ノ門外[1]で、皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた暗殺未遂事件。
関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、震災復興を進めていた第2次山本内閣は、引責による総辞職を余儀なくされた。 』
虎ノ門事件 - Wikipedia
◆神谷町駅
見学会の皆さんとはコチラで待ち合わせ。
続く。