2023/07/20 四ツ谷駅(江戸歴史散歩コーナー(東京メトロ南北線コンコース内))




◆江戸復原図




江戸城の石垣

雉子橋(千代田区九段南) から出土した石材を使って、江戸時代初期 (17世紀初頭) の 「打ち込みハギ」 と呼ばれる石積みの技法を再現したものである。
当時石を割るには、割りやすいように石の目にそって石切ノミで 「矢穴」を掘り、これに 「矢」 と呼ばれる楔と、その両側に 「せりがね」 と呼ばれる薄い鉄板を差し込み、「玄翁」で矢を叩いて割った (右図)。 石材には、 切り出しや石積みを行った藩や石工等の刻印と共に石割りの際の矢穴が残っている。
矢穴や刻印は普通は石垣の隠れた面に多く残っているが、ここでは展示を目的として正面から見えるように積んである。




◆地下鉄建設にともなう遺跡発掘風景




◆石曳図(いしひきず)



小田原藩大久保家が幕府へ献上する石材の切り出しから運搬までの手順を描いた図。 石山での石曳きのための道づくり、採石、 切石の沢落とし、 修羅 (木のソリ)
を使った巨石の浜出し、 ろくろ (巻車)を使った石船への積み込みなど、当時の様子を知ることができる。




◆築城図屏風(ちうくじょうずびょうぶ)



徳川家康が諸大名に命じた駿府城 (静岡市内) 築城の様子を伝える屏風絵。 慶長12年(1607) 二の丸石垣構築の一部を受け持った加賀藩前田家の活躍を描いたとされる。 石の大小に応じた修羅 (木のソリ)・ 牛車・天秤棒・籠などによる当時の運搬方法、 高石垣の構築方法など、この屏風から石垣構築現場の様子を知ることができる。




◆江戸の地震跡/堀浚丁場図/寛永13年江戸城外堀普請

江戸の地震
江戸時代の地震は、江戸城の堀にも被害を与えた。 四ツ谷駅の発掘調査では、江戸時代に盛土された地層から、地震による地割れ・地滑りや噴砂 (地盤の液状化により砂が噴き上がる現象)の跡がいく
つも発見された。 また、 幕府お抱えの石職人で、 石材調達業を営んだ青木家には、安政江戸地震 (1855) で被害をうけた江戸城の堀の石垣や土手が崩壊した場所を示す図面が伝わっている。

堀浚丁場図(ほりざらいちょうばず)
江戸城外堀が築かれた 10年後の正保2年(1645 ) に幕府の命により行われた堀浚いの作業分担を示す図。 この堀浚いは東国6家の大名によって行われた。 赤坂御門から吉祥寺橋 (現水道橋) までの工事範囲は8つの区域 (丁場) に分けられ、各区域内は6 家に分割された。

寛永13年江戸城外堀普請
寛永13年(1636) の江戸城外堀普請(土木工事) は、 幕府に命じられた外様を中心とする113 家の大名によって行われた。 この普請は、西国大名61家の石方と東国大名52家の堀方の二手に分けて進められた。 下段の図は、有力大名を組頭とする石垣方 堀方の普請組 (エ事の分担組) を示している。 工事量は各組の大名の石高に応じて決められた。




玉川上水と外堀/外堀土手の修復

玉川上水と外堀
四谷見附は、 玉川上水が外堀を渡り、江戸城に分水される地点であった。 四ツ谷駅の発掘調査では、 玉川上水の木樋 (木製の水道管)や埋桝、 四谷土橋に沿って懸け渡された木樋 (懸樋)の橋台の石垣などが発掘されている。 また、 外堀に水を落とすための江戸時代初期の木樋も出土した。 外堀は江戸城の防備の役割だけでなく、江戸の水利施設とも深く関わっていた。

外堀土手の修復
市ヶ谷駅の発掘調査では、江戸時代の盛土によって築かれた外堀土手に、崩壊と修復をくり返した痕跡が認められた。 排水のために設置した暗渠 (地中に設けた水路) や築き直した土手を補強する土留めなどは、 当時の土木技術の一端を示している。