2024/12/05 牟礼神明社




 この神明社は、牟礼の開祖、北條常陸之介康種(牟礼の開村は天正十八年西暦一五九〇年)の父北條治部少輔綱種(本氏高橋将監種政、北條早雲に養育され軍師多目氏に従学し伊豆韮山城に住んだ。北條左京大夫氏綱の時、大道寺方に配属され江戸城を攻略した。戦功あって御猶子に准ぜられ家号を賜い、北條常陸之介綱種と改め相州甘縄の城代となる。北條氏康の命あって治部少輔と進んで武蔵国の鎮衛の司として江戸城主となる)
大永四年正月上杉修理大夫朝興を攻略した。上杉氏は河越に敗走天文六年四月河越城に没した。五郎朝定は父の遺志を継いで江戸城を復さんと図る。天文六年七月老臣難波田弾正を以って深大寺城に出陣。主命あって綱種は江戸城を進発し深大寺城に対峙して砦を築く。天文六年十一月十五日西暦一五三七年綱種は陣内鎮護のために芝の飯倉神明宮の御分霊を勧請し高番山(現在地)に祀る。合祀された稲荷神社は往年村人の結衆に依って稲荷山(高山)に祀らていた。明治元年太政官布告神仏判然令に基き氏子の総意によって合殿された。
 以上が牟礼の鎮守と崇められて今日に至るを略記する。






 天文六年(一五三七年)に北條左京大夫氏綱の臣北條治部少輔綱種(今の高橋姓)が上杉家の老臣難波田弾正のたてこもる、深大寺城に相対して当地に築陣した旧跡で、陣内鎮護のため芝倉神明宮より御神体を天文六年十一月十五日に遷霊し鎮座せられたのが起こりである。
 以来牟礼地方の住民からお伊勢様、神明様と親しく呼ばれるようになり、この地方の守護神として今日に至るまで篤く崇敬されている。





境内社三峰・榛名神社合殿






◆神楽殿





◆旗かけの松



文字化を断念。
北条綱種が当地に砦を築いたとき、旗を掲げて本陣であることを示したという松・・・ということでいいのかな?





◆石燈籠(巳待講)




 井の頭弁財天への道標を兼ねて牟礼村の巳待講が建てた常夜灯である。 以前は高井戸から連雀への道と井の頭道の分岐する角(現在の牟礼2丁目交差点付近)にあった。
幕末期、 嘉永3年(1850)の建立であり竜の浮彫は見事である。
 寄進者名に江戸講中の人名があることから江戸市中の信仰が厚かったと思われる。





◆鳥居





◆参道入り口





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