2023/07/30 飯田橋駅(史跡跡)



江戸城

 江戸城は、平安時代末の江戸氏居館、室町時代太田道灌、戦国時代の小田原北条氏の支城として受け継がれました。 豊臣秀吉は、北条氏を滅ぼすと、徳川家康を関東に移封しました。 1590(天正18) 年、徳川家康江戸城に入城し、江戸城と城下町の建設を始めました。家康入城時の江戸城には石垣はなく土塁のみで、日比谷も入り江で日本橋・京橋辺りも海面と同じ高さの湿地でした。
 家康は、 まず城内の寺を出し本丸を拡張し、城下町の武家地、町人地を整えました。 次に、本丸の南の台地を削り西の丸を造成し、 その残土で日比谷入り江を埋め立てました。 1603 (慶長8)年、幕府を開き実権を握った家康は、天下普請として、城と城下町建設に諸大名を動員しました。 同じ年に、神田山を崩して日本橋南の地域を埋め立て、市街地の造成と日本橋の架橋を行い、翌年には日本橋を起点とする五街道を整備しました。 1606 (慶長11)年には二の丸・三の丸と城郭の整備、石垣築造を進め、翌年には天守が完成しました。なお、天守は1657(明暦3)年に大火で焼失した後、再建されませんでした。
 1868(明治元)年、明治天皇江戸城に入り皇居となり、 1960 (昭和35)年、江戸城内郭の堀が「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されました。 このほか、「江戸城外堀跡」と「常盤橋門跡」が史跡に、 外桜田門、 田安門、 清水門とそれぞれの櫓門が重要文化財に指定されています。




江戸城外堀

 江戸城は、本丸・二の丸・三の丸西の丸・北の丸・吹上からなる内郭を内堀が囲み、その表門が大手門でした。 外堀は、雉子橋門から時計回りに、 一橋門、神田橋門、 常盤橋門など諸門をめぐり、呉服橋門から虎ノ門、溜池から四谷門、市谷門、牛込門を経て、現在の神田川に入り、小石川門から浅草門で、隅田川に至る堀でした。 外堀工事は、 1606 (慶長11) 年に雉子橋から溜池までの堀を構築後、 1618 (元和4)年に駿河台が掘削されて平川 (現日本橋川) の流路に付け替えられ、神田川が誕生しました。この工事で、平川は堀留橋で締め切られ、独立した堀となりました。
 1636(寛永13)年には、天下普請で外堀が構築され、江戸の総構が完成します。 この工事は、雉子橋から虎ノ門に至る外堀の総石垣化と枡形築造を前田・細川・池田・黒田家など西国外様大名(石垣方六組)、牛込土橋から赤坂土橋にかけての外堀掘削と土塁の構築を東国大名(堀方七組)が行いました。
 その後も幕府は、外堀を維持するために大名の手伝普請による堀さらいをしました。 牛込~市谷間の堀は、 市谷~四谷間より水位が下がり、土砂が堆積し、蓮が繁ったため、普請奉行の管理下で頻繁にさらいが行われました。 また、町人にも堀にゴミを捨てないよう町触も出され、 外堀の維持・管理が行われました。




◆牛込・赤坂間の江戸城外堀の工事方法

 牛込から赤坂にかけての外堀のうち、牛込~市谷までは、 神田川支谷の地形を利用して造られました。 次に四谷・麹町付近は、もともと台地の尾根が横切っている地形であったため、台地を掘り込み、 赤坂側の溜池の谷へと結ぶ大工事となりました。 この区間の工事は、普請を担う各大名が組を編成し、 組毎の掘削土量が一定となるように分担されました。
 外堀は、喰違見附が最も標高が高く、真田濠より神田川に向かって堀毎に順に水位が低くなりました。そのため、牛込門 (飯田橋駅西口) のように外堀を渡る土橋には堰が設けられ、堀の水位を調整していました。 また、自然の谷地形を活かしながらも、城郭としての防御効果を高めるため、現在の千代田区側の台地に土を盛って高い土塁を築き、急峻な土手が形成されました。
 江戸城外堀は総延長約14kmを誇り、このうち牛込門から赤坂門までの約4km、面積約38haの堀が国史跡指定されています。 史跡区域には、地形を巧みに利用して築かれた外堀が水をたたえる姿や、 外郭門の石垣、土塁の形態を見ることができます。




◆外濠の変遷

 外堀は江戸城防御の役割だけではなく、豊かな水辺空間として当時から江戸市民に親しまれ、名所絵などの浮世絵にも多く描かれました。 「名所江戸百景」(広重・1856(安政3)年-1858(安政5)年)には、 市ヶ谷八幡の門前町が堀端に広がり賑わう景色が、 外堀とともに描かれています。 また、 「富士三十六景」 (広重・1858(安政5)年)には、御茶の水の懸樋下を、 荷物を載せた船が往来する様子が描かれ、 外堀が物資輸送路としても使われていたことがわかります。
 明治期以降も外堀は景勝地として受け継がれました。 1893(明治26)年、地域有志者からの寄付金により、 四番町より市谷田町に通じる新道 (現・新見附) 開設願いが出され、 甲武鉄道の延伸工事と一体で建設されることとなりました。
 1894(明治27)年に開通した甲武鉄道と外堀の風景は絵葉書などに多く取り入れられました。 1911 (明治44)年には、 牛込から喰違までの土手遊歩道を江戸城外堀として永久に保存するため公園とすることが計画され、 1927 (昭和2)年に牛込橋から新見附橋までの区域が「東京市立土手公園」として開設されました。 なお、 甲武鉄道や近代の牛込濠周辺の変遷については、駅舎2階に解説板を設置しています。

牛込見附の堰に用いられていた石
 この解説板の横に置いてある石は、 牛込見附土橋に構築されていた堰の水路面に使用されていたもので、駅舎工事にあたり発掘されました。 発掘結果や当時の堰の様子をうかがい知れる史料などを、 JR飯田橋駅ホーム上 (実際に堰が発見された位置となる牛込橋の真下付近)で解説しています。




◆牛込門跡/「阿波守内」銘の石垣石

 牛込門は1636年(寛永13年) に、 阿波徳島藩(現在の徳島県) 藩主蜂須賀忠英(はちすか ただてる)により築造されました。 門の名称は、牛込方面への出口であったことによります。 なお辛込の名称自体は、新宿区側の台地上に拠点をおいていた牛込氏・牛込城にちなむと思われます。
 この辺りは、牛込(飯田橋)から四谷にかけて広い谷があった場所を利用して外堀を築いており、防御のため堀幅を広くしているといいます。門は1871年(明治4年)に撤去されました。
 赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、 1956年 (昭和31年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。
 ここにある直方体の石は、牛込門の基礎として地中に設置された石垣石です。はす向かいの富士見教会の建て替えがあった際に敷地内から発見され、ここに移設しました。 石の側面には「口阿波守内」という銘文があり、蜂須賀家 (阿波守)が牛込門の石垣工事を担当したことを裏付けています。





千代田区町名由来板 富士見

 江戸城の名残である外堀 (外濠)に面したこの界隈は、 武家の屋敷が立ち並ぶ地域でした。 当時、 武家地には正式な町名がなく、道筋に土手四番町、裏四番町通などと呼称が付いていただけでした。「富士見」という町名が生まれたのは明治五年(1872) のことで、 九段坂を上ったあたりから眺める富士山の姿がじつに素晴らしいことから付けられた名前です。 九段坂を上りきった台地 (現在の靖国神社周辺)に富士見町一~六丁目が誕生しました。
 昭和八年(1933)、富士見町四丁目は富士見町三丁目と改称します。 同じ年、富士見町五丁目と飯田町六丁目の一部が合併し、富士見町二丁目となりました。 そして昭和四十一年(1966) 住居表示の実施にともない富士見町二丁目と富士見町三丁目、 飯田町二丁目の一部が合併して、現在の富士見二丁目が誕生したのです。
 現在、当町会は東西に約八百メートルの長さがあり、 東京のお伊勢さまといわれる東京大神宮をはじめ、 衆議院議員宿舎など、 名のある建物が多数存在しています。 また、大学や病院など教育・医療機関も充実しています。JRと四本の地下鉄が走るきわめて交通の便がよい立地で、緑が多く、住むにも働くにもよい町です。