2024/12/05 八幡大神社


『 明暦3年(1657年) - 明暦の大火の後、神田連雀町の一部の住民が替え地として当地を与えられる。新田を開発することとなり、連雀新田と名付けられる。
寛文4年(1664年) - 名主松井治兵衛と村の年寄・組頭らは、連署で神社と寺の創建について幕府に誓願。老中松平伊豆守と寺社奉行は代官に検地を命じ、社地1万坪と寺地2万坪を除地として寺社の建立を許可。築地本願寺より松之坊を迎える。後に松之坊は退転し、黄檗宗禅林寺が開かれている。
明治6年1873年) - 神仏分離によって独立、村社に列される。
現代 - 例祭に渡御する2基の神輿のうち、二之宮神輿の屋根の鳳凰の目が、1994年版のギネスブックに日本一のダイヤモンドとして掲載された。』
八幡大神社 (三鷹市) - Wikipedia




 この神社は八幡大神社といい、今から三百二十年程前、後西天皇明暦年間、徳川四代将軍家綱の頃、俗に、「振り袖火事」と云い伝えられている神田連雀町の罹災者松井治兵衛外二十四人衆等が幕府奨励の新田開発農民となって移住して来たのが三鷹下連雀の起りである。
 このあたり一帯は徳川御三家の御鷹場があったことから「三鷹」と呼ばれ、又「下連雀」と云う字名は「神田連雀町」から由来している。
 寛文四年、連雀村の名主松井治兵衛は村役の年寄、組頭等と共に「氏神社、八幡大神社」の御鎮齋を幕府に請願したところ、時の松平伊豆守は代官野村彦太夫に検地を命じ、当所南北に社地約壱万坪を除地として定め、創建の運びとなったのである。その後、下連雀の「氏神社」として地元氏子崇敬者の厚い信奉のもとに発展し、今日に至っている。





 後西天皇明暦三年正月十八日、江戸本郷の本妙寺から出火した火事は折からの強風で大火となり、江戸城天守閣をはじめ外堀内堀のほとんどを焼き尽くし、死者十万人ともいわれる大災害をもたらした。「明暦の大火」俗に「振袖火事」と言い伝えられている。江戸幕府は被災地町内外の整備を計り、火除地となる地域の住民に住宅の再建を許さず、罹災者に対する対策として新田開拓農民となることを奨励代替地を供与した。
 今から三百五十五年前、時に後西天皇万治元年、神田連雀町の一部住民二十五人衆とその家族は「茅場千町野」といわれていた現在のこの三鷹の土地を与えられ新田開拓農民となって移住してきたのである。これが今日の下連雀の始まりである。「下連雀」の地名の由来は故郷「神田連雀町」をとって名付けられ、当初「連雀新田」と称したが、寛文四年「連雀村」に改められ、更に武蔵野に新田が数多く成立するに及んだ享保年間「下連雀村」となった。
 霊元天皇寛文四年、連雀村の名主松井治兵衛は村の年寄、組頭等と村つくりの精神的また地縁的中心と仰ぐ「氏神社」の御創建について相議り連署を以て幕府に請願したところ、時の老中松平伊豆守は、代官野村彦太夫に検地を命じて現在のこの社地(約壱万坪)を除地と定め鎮守八幡大神社の創建を許可した。
 こうして下連雀村の二十五人衆は氏神社を奉斎し、心の拠りどころとして村つくりに励んだのである。
 棟札によると中御門天皇享保十年八月社殿の改築が行われ、次いで仁孝天皇弘化元年八月再建がなされた。現在の社殿は昭和天皇昭和三十五年八月に造営されたものである。
 明治四年の太政官布告によって「村社」に列せられたが戦後昭和二十七年「宗教法人」となり、下連雀の守護神として地域住民の厚い信仰心に依って発展し、年中の祭祀が行われ今日に伝えられている由緒ある神社である。






◆楼門






◆御神木







◆神楽殿






◆日露戦役紀念碑

左側が石灯籠で、手前の小さいのが力石かな?






◆鳥居






◆近くにあった地図






場所はコチラ









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2017/02/05 アーカイブ
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八幡大神

玉鹿石から一気に南下。
大きな神社です。






天然記念物だそうです。