2022/01/16 銀座散歩 06 朝日新聞東京本社跡/南町奉行所御白州跡/日劇跡/明治大学発祥の地/数寄屋橋公園/有楽町駅

まだ有楽町駅南側を散策。
史跡がいっぱいあるね・・・・。





朝日新聞東京本社跡

朝日新聞社は1879年(明治12年)大阪で創業9年後に東京に進出し本拠を現在の銀座6丁目に置いた。社勢の伸張に伴ってここ有楽町に東京本社を移したのは関東大震災の復興なお半ばの1927年(昭和2年)3月であった。
その建物は当時の最高傑作とうたわれ外濠に影を落とした景観は東京の新名所となった。以来半世紀戦争と敗戦をふくむ波乱の時代を通じて朝日新聞の言論・報道活動の中心であり続けた。今日世界有数の新聞となるに至った歴史はこの有楽町の地を抜きにしては語り得ない。
しかしながら社業の発展とともに社屋の挟隘と不便さは限度に達し1980年(昭和55年)9月をもって築地に移転した。
創業者村山龍平はじめ万余の社員・関係者の汗と感慨のにじむこの地に新時代を象徴する巨棟を建設したのを機に一文を掲げて末永く記念するものである。










南町奉行所御白州跡

現地には説明版など何も見当たらなかった。



google mapでのマークは上の写真のところあたり。
ちょっと北に行ったところに「南町奉行所跡」があるので、奉行所の御白州があった場所なのだろう。


駅前にあった南町奉行所跡碑
2017/11/26 イルミネーション散歩 (丸の内、有楽町、新橋) - ovanの社会科見学


『文化7年(1810年)作成の江戸南町奉行所の平面図によれば、最上段には町奉行をはじめとする役人が座る「公事場」と呼ばれる座敷が設けられており、対して最下段には「砂利敷」が設置され、その上に敷かれた莚に原告・被告らが座った。もっとも、武士(浪人を除く)や神官・僧侶・御用達町人などの特定の身分の人々は「砂利敷」には座らず、2段に分かれた座敷の縁側に座った。武士・神官・僧侶は上縁(2段のうちの上側の縁側)に座ることから上者、それ以外は下縁(2段のうちの下側の縁側)に座ったために下者と呼ばれた。一方、役人のうち与力は奉行より少し下がった場所に着座したが、同心は座敷・縁側に上がることは許されず、砂利敷の砂利の上に控えていた。
お白洲には突棒・刺股・拷問用の石などが置かれた。これらは実際の使用よりも、原告・被告に対する威嚇効果のために用いられたと考えられている。なお、奉行所のお白洲には屋根が架けられるか、屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いており、時代劇などに見られる屋外に白砂利敷の風景ではなかった。
お白洲とは、「砂利敷」に敷かれた砂利の色に由来している。もっとも古い時代には土間がそのまま用いられており、白い砂利敷となったのは時代が下る。白い砂利を敷いたのは、白が裁判の公平さと神聖さを象徴する色であったからと言われている。
日本の推理小説や時代劇において、奉行所での取り調べを主題とするジャンルは「お白洲もの」と呼ばれている。 』
お白洲 - Wikipedia









日劇

現地には説明版など見当たらなかった。



google map のマークは上の写真のところあたり。

『日本劇場(にほんげきじょう、1933年12月24日 - 1981年2月15日閉館)は、かつて東京都千代田区有楽町に存在した劇場。日劇(にちげき)の通称で親しまれた。
1933年(昭和8年)竣工。戦時中の空襲による被災や、終戦後の占領軍による接収も免れ、半世紀近くにわたって日本興行界を代表する象徴のひとつとして存在した。 』
日本劇場 - Wikipedia



近くにあった地図









明治大学発祥の地



明治法律学校(現明治大学)は, 明治一四年(一八八一)一月一七日に 旧肥前島原藩松平氏上屋敷であった この地に開校した。創立者岸本辰雄, 宮城浩蔵, 矢代操の三人は, 貢進生として鳥取藩, 天童藩, 鯖江藩を代表して大学南校に遊学し, つづいて明法寮でポアソナードにフランス法を学んだ。その後フランスに留学し, とくに「権利自由, 独立自治」の精神の普及をめざして本学を設立した。当時彼らはいずれも三〇歳に満たぬ白面の書生であった。



 かつて外濠川に面したこの付近には、1691年(元禄4年)以来、肥前島原藩(現在の長崎県)などを治めた深溝松平家上屋敷が置かれていました。
 明治維新後、屋敷は、政府の収用を免れて貸し出されることになり、民権結社による演説会などが盛んに催されました。1881年明治14年)1月17日、若き法律家である岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操は、屋敷の一部を借り受け、同心協力して明治法律学校明治大学の前身)を開校し、1886年明治19年)に神田区駿河台南甲賀町(現在の神田駿河台)へ移転するまで、我が国の近代化を担う法曹の育成に努めました。
 1995年(平成7年)、同地に「明治大学発祥の地」碑が建立されました。


近くにあった地図









数寄屋橋公園


数寄屋橋の碑

数寄屋橋
 此処に
  ありき

菊田一夫


 寛永6年(西暦1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅4間長3間の木橋であった橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという見附の城門枡形は維新の際に撤去され
ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することヽなった 
 爾来30年首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し ここは渾然たる大銀座の一劃となった 本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした


『菊田 一夫(きくた かずお、1908年3月1日 - 1973年4月4日)は、日本の劇作家・作詞家。本名は菊田 数男。元妻は女優の高杉妙子。娘の菊田伊寧子は作曲家。』
菊田一夫 - Wikipedia


若い時計台

岡本太郎 作


「友好の木 ハナミズキ・イニシアチブ」による寄贈について

 ハナミズキは、 大正元年 (1912)に当時の東京市長尾崎行雄アメリカーにサクラを三〇〇○本寄贈上た際、 その返礼とLて大正四年(一九一五) に日本人られた木であり、日米友好の象徴とされてきました。
 平成二十四年(2012) サクラ寄贈100周年を記念し、また今後の日米の友好関係を見据え、 アメリカはハナミズキ約三〇○○本を日本各地に植樹する「友好の木ハナミズキ・イニシアチプ」ブロジェクトを開始しました。
 数寄屋橋公園大正三年 (1914) に開園しました。公園の名前の由来となっている数寄屋橋は、寛永六年(1629) 頃江戸城外濠に架けられた橋で、昭和四年(1929)には石造りの二連 アーチ橋に架け替え済られました。 昭和三十四年 (1959) 外濠の 埋め立てに伴い橋は撤去されまLたが、 現在、数寄屋橋公园は銀座に訪れる多くの方々の待ち合わせや休息場所として親しまれています。
 この度、このプロジェクトにより、ハナミズキ20本の寄贈を受け、銀座の玄関口とも言える数寄屋橋公園に植樹しました。



後に泰明小学校が写っている。

『校舎は、1923年の関東大震災の教訓から、通常の壁厚が15cm程度であるのに対し22cmを有する堅牢なつくりとし、第二次世界大戦東京大空襲の爆撃にも耐えて現在に至っている。外観は、ツタの絡まる校舎の外壁や、連なる3階の半円形の窓、円形に張り出した講堂、緑を伴うアーチ型の開口を有する塀、“フランス門”と呼ばれる瀟洒なデザインの門扉などの特徴を有している。また、講堂と雨天体操場が上下二層構造となっており、隣接する数寄屋橋公園等も一体で計画されている点、工夫の凝らされた配置計画などと相まって、都心の狭小敷地にありながら、良好な日照条件と外遊びの空間を確保し、明るく快活な校風形成の源泉ともなっている。
関東大震災後に建設されたいわゆる復興小学校の中でも、中央区立常盤小学校と共に東京都選定歴史的建造物に選定、及び経済産業省近代化産業遺産に認定され、歴史的な建造物として高く評価されている。また都心ではかつてのエリート達が、泰明小卒業後に麻布中学校や日比谷高校、さらに東京大学へと進学していったことで知られていた。
中央区が実施している特認校のひとつに指定されている。中央区内では「学区外からも通え、毎年抽選となる人気の特認校」、「少人数教育の超名門小学校」と見られることがある。 』
中央区立泰明小学校 - Wikipedia









◆有楽町駅

ゴールのJR山手線有楽町駅。











銀座は何度も来ているのに、まだまだ見てない史跡等いっぱいあるね。
新しいのができたり、工事で無くなったりだね。
地図にこれから載るのもあるんだろう。
またこようっと。