2022/02/27 田原町散歩 07 山縣商店/揖取稲荷神社/警視庁蔵前警察署/浅草天文台跡/鳥越神社/鳥越本通り商盛会

こちらの日記ではどんどん南東へ。
蔵前駅方面へ向かう。





◆山縣商店

うまい棒の看板に思わず見入ってしまった。










◆揖取稲荷神社



 慶長年間(1596~1614年)江戸幕府が開府し、米蔵造営の石を遠く肥後熊本より運搬の途中、遠州灘に於いて海が荒れ船が度々遭難したが、ある時稲荷の示現を得てより後は航海の安全を得ることが出来た。その神徳に感謝し、称える為に稲荷の社を浅草御蔵の中に創建、爾来今日に至る。鎮座以来、既に四○○有余年、祭事怠る事無く奉仕し、広く衆庶の尊信を集めている。
 その神徳により、名付て「揖取稲荷神社」と呼ばれています。










◆警視庁蔵前警察署









◆浅草天文台

一度来たことがある。
2018/04/28 浅草橋散歩 02 銀杏岡八幡神社/浅草橋須賀神社/加賀美久米森稲荷/陣内神社/鳥越神社/浅草天文台跡 - ovanの社会科見学



 この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。
 天文台は、司天台(してんだい)、浅草天文台などと呼ばれ、天明2年(1782年)、牛込藁店(わらだな)(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方(てんもんがな)」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。
 その規模は、『司天台の記』という史料によると、周囲約93.6m、高さ約9.3mの築山の上に、約5.5m四方の天文台が築かれ、43段の石段があった。また、別の資料『寛政暦書』では、石段は二箇所に設けられ、各50段あり、築山の高さは9mだったという。
 幕末に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の『富嶽百景』の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀(こんてんぎ)」を据えた浅草天文台が描かれている。
 ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬(いのうただたか)がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ影保(かげやす)の進言により、文化8年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学書、藩書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。
 天文台は、天保13年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治2年(1869年)に新政府によって廃止された。



 本町は、付近の九ヶ町を整理統合して昭和九年(1934)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府米蔵 があったことから付けられた。
 米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するために造られた倉庫で三ケ所あった。大阪、京都二条と御蔵とあわせて 三御蔵 といわれた。その中でも特に# 浅草御蔵 は重要であった。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で墨田河岸を整地し造成された。当時六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)のコメを収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地をもたない旗本・御家人に支給する給料米であった。


近くにあった地図









◆鳥越神社

以前来たことがある。
今回はお参りだけ。
2018/04/28 浅草橋散歩 02 銀杏岡八幡神社/浅草橋須賀神社/加賀美久米森稲荷/陣内神社/鳥越神社/浅草天文台跡 - ovanの社会科見学









◆鳥越本通り商盛会

商店街♪













続く。