2022/05/12 深川散歩 02 富岡区民館/富岡八幡宮/八幡堀遊歩道/武田堀公園/和倉橋跡/深川公園/旧富岡橋

門前仲町駅北側エリアを東へ進む。
富岡八幡宮の後はさらに北側エリアを今度は西へ進む。
首都高速9号深川線の高架下を歩いた。




◆富岡区民館

江東区の施設。
富岡区民館|江東区












富岡八幡宮

何度か来たことがある。
mixi時代も合わせるともう何回か来ている。
2013/10/07 門前仲町散策 - ovanの社会科見学

2017/07/25 東陽町散歩 02 弁天橋/三十三間堂跡/八幡堀遊歩道/富岡八幡宮 - ovanの社会科見学


情報量が多いので日記を分けた。
2022/05/12 富岡八幡宮 - ovanの社会科見学












◆八幡堀遊歩道


旧弾正橋(だんじょうばし)(八幡橋




 八幡橋は、明治十一年東京府の依頼に予知工部省赤羽製作所が制作した長さ一五・二メートル、有効幅員二メートルの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓(もみじ)川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、対象に稔(1913)市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。大正十二年関東大震災後の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和四年(1929)五月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣であるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋に至る過渡期の鉄橋として近代橋梁技術史上価値の高い橋である。



八幡橋は、明治十一年(1878)わが国において、最初に日本製の鉄を使って作られた鉄橋で、国の重要文化財や東京の著名橋となっています。
 橋の形(ウイップル形トラス)は、米国人クワイアー、ウィップル(SQUIRE WHIPPLER)氏の特許が基本となっています。
 ウイップル形トラス橋の名誉と日本の歴史的土木建築物に「八幡橋」の優れた制作技術に対して、平成元年(1989)米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られました。


八幡橋(旧弾正橋)



八幡橋は、明治11年(1878年)に京橋区楓川に架けられ、島田弾正屋敷が近くにあったことから弾正橋と呼ばれていました。
現在の中央区宝町三丁目付近に位置します。 弾正橋は、馬場先門から本所 深川とを結ぶ主要街路の1つで、文明開花のシンボルとして架橋されましたが、その後関東大震災の復興事業により廃橋となってしまいました。しかし昭和 4年 (1929年)には、その由緒を惜しみ現在地に移設され、八幡橋と名前も改められました。
現在では江東区が大切に保存しています。
この東京名所図会 (三ツ橋の現況)には、明治34年(1901年)頃の弾単正橋 (左奥) が描かれており、当時の情景が偲ばれます。
弾正橋·白魚橋 真福寺橋とをあわせて三ツ橋と呼び、古くから有名で人々から親しまれていました。


旧新田橋



 新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
 大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。
 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的一な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。
 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。


一度来たことがある。
2017/07/25 東陽町散歩 02 弁天橋/三十三間堂跡/八幡堀遊歩道/富岡八幡宮 - ovanの社会科見学


2017/06/09 の日記
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/searchdiary?word=%BF%B7%C5%C4%B6%B6
この日に行った場所には元々この橋が架かっていたとのこと。
説明板は一緒だね。













◆武田堀公園












◆和倉橋跡

上は首都高速9号深川線。
史跡は高速の真下。






和倉橋親柱



 和倉橋は、大正一二年(1923)の関東大震災からの復興事業の一環として油堀川に架けられた震災復興橋梁の一つです。昭和四年(1929)に竣工しました。その後、昭和五十年(1975)に川が埋め立てられ、橋が撤去されて欄干の端にある親柱2基だけは残されました。現在は、高速9号深川線の高架下の道を挟み南北に置かれています。
 両親柱は、上中下三段の本体と台石で構成されています。本体・台石はいずれも花尚岩製です。各部材は後にモルタルで接合されました。また正面には、「わくらばし」と記された橋名板(陽鋳·鉄製)が はめられています。この親柱の特徴として、側面に見られる放物曲線状のデザインが あげられます。これは大正期に流行した建築様式である表現主義の影響と考えられます。
 このように本親柱は、位置。形態に変化がみられますが、失われた震災復興橋梁の面影を現在に伝え、さらに当時流行していた表現主義のデザインを知ることができる貴重な文化財です。


和倉橋由来



 この付近は、幕府賄(まかない)方組屋敷があり椀をしまう倉があったことから「わんぐら」「わぐら」といった。明治二年からこの付近の町名を深川和倉町といい、油堀川に「わくらの渡し」があった。
 昭和四年、ここにはじめて和倉橋がかけられ、橋は長さ20.4m、幅11mの鉄橋トルの鉄播であった。
 昭和五十年、油堀川が埋められたので和倉橋はとリはずされた。












◆深川公園

深川公園は成田山をはさんで東西に分かれており、こちらは東側。


柳田泰麓の碑

書家。
WEBで探してもあまり詳しいことが載っていなかった。
参考
柳田 泰麓












◆旧富岡橋

上は首都高速9号深川線。
史跡は高速の真下。



現地には説明版など何もなかった。
WEBで調べてもあまり資料が見つからなかった。
参考
富岡橋跡(史跡閻魔堂橋跡) | 東京とりっぷ

















続く。