2022/05/12 深川散歩 08 松永橋/亀堀公園/閻魔堂橋跡/法乗院/心行寺/深川一丁目児童遊園

前野エリカから東へ移動。
亀堀公園を南下。
首都高速9号深川線の高架下を南東へ進んだ後は清澄通りに出て通りを北進する。






◆松永橋

下は大島川西支川。






 大島川西支川は、江戸時代に大島川と称された本川の一部であり、現在の永代二一丁目一春から福住二丁目八春に至る約829mから成っている。
 大島川の名称の由来は、右岸の町名大島町にちなむもで、元禄十二年(1699) , 深津八郎右衛門により付近の 埋立と同時に開創され、いつの頃か福住海岸と称され、装沢栄一邸などがその海
岸に建てられており、 荷物 の積みおろしなどで大変にぎわっていた。路和四十年の河川法により本川大島川は、正式名称として大横川とよばれることとなり、 大島川の名称は東西両支川の名に残るのみとなった。


モニュメント



平成8年まであった旧松永橋には、戦争の傷跡である弾痕が残っていました。このモニュメントは、橋の鋼材の一部を使ったものです。古い橋の鋼材を使って過去を表し、新しい鋼材によって未来への情熱と希望を創造したものです。












◆亀堀公園












◆閻魔堂橋跡



閻魔堂橋跡 ~文芸や芝居に取り上げられた橋~
 間魔堂橋は、油堀に架けられた富岡橋のことてす。通称「深川間魔堂」と呼ばれた法乗院(深川ニ-一六-三)へ通じる道であったため、閻魔堂橋と呼ばれました。為永春水(ためながしゅんすい)(1790~1843)の人情本『春暁八幡佳年』、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)(1816~93)の歌舞伎「梅雨小袖昔八丈」(通称「髪結新三(かみゆいしんざ」)など江戸の文芸や芝居の作品中に取り上げ親しまれました。
 左図には、闇魔堂橋のたもとて、恨みを晴らそうとする弥太五郎源七に新三が捨て台詞を吐いている場面が描かれています。
  丁度所も寺呼に安婆と冥土の別れ道其の身の罪も深叫に橋の名さへも間魔堂りに橘の名さへも閻魔堂、鬼といはれた源七が套(ここ)で命を捨るのも、餓鬼より弱い生業(しょうべい)の地獄のかすりを取った報いだ
 文政頃(1818~30) の規模は、長さ一〇間三尺(約19m)、幅一丈三尺(約4m)となっていました。その後、明治三
四年(1901)に、東京市区改正による道路新設にともない廃橋となりました。













◆法乗院
















◆心行寺



 双修山養源院と号し、元和2年(1616)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主 吉川監物の室 養源院殿の発願に開基による。
 寛永10年(1633)現在地に移転、当時境内地は、間口42間奥行42間総坪数1764坪、影窓院 正寿院の二末寺があった。
 大正12年関東大震災の厄にかかり、昭和7年(1932)再建された本堂庫裡も昭和20年(1945)戦災のため再度烏有に帰した。
 現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味し、昭和43年(1968)に落慶した。
 本堂両脇間に観無量寿経変相図曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。
    史 跡 
 開基養源院殿墓  五重石塔  宝筺印咒塔
 五世鶴屋南北墓  松本交山墓  工藤琳甫墓
 悟道軒円玉墓   深川七福神福禄寿堂



 心行寺は雙修山養源院と号し、開山は、光蓮社団誉一露屋道で、養源院は開基です。元和2年(1616)に、八丁堀に創建され、寛永10年(1633)に現在地に移りました。
 養源院は岩国藩主吉川広嘉(1621~1680)の妻で、承応3年(1654)に没しました。広嘉は岩国藩主として2代目で、延宝元年(1673)には、錦帯橋を架橋しています。
 深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。













◆深川一丁目児童遊園



 清澄通りをはさんだ法乗院は、江戸時代より、「深川えんま」として有名である。
 この画は、梅雨小袖昔八丈「髪結新三」の一場面で、描かれている橋は、「えんま堂」の前にかかっていた黒亀橋、もとの富 橋のことである。












続く。