永代橋で隅田川を・・・渡らず。
隅田川沿いに北へ移動。
ワークセンターつばさあkらは細い路地を東へ。
◆永代亭パンの会旧跡
参考
http://www.shitamachi.net/joho/0101-7201.htm
◆赤穂義士休息の地碑
赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友でありました。
元禄15年(1702年)12月14日、本所松坂町(現 墨田区両国3丁目)の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通りを引き上げの途中、永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。
油堀は、隅田川から富岡八幡宮の裏手を通って木場へ通じていた堀でした。寛永18年(1641)にできた元木場(佐賀·福住一帯)の堀を利用したもので、元禄12年(1699)、元木場の移転と永代浦の開発にともない川幅が15間に広げられ、木場へと伸ばされました。隅田川対岸の火の見櫓のそばに見えるのは、油堀に架かる下之橋です。
名前の由来は、油問屋の油会所や油置場が緑橋附近にあったことにちなみます。近くには千鰯場があり、また「いろは蔵」と呼ばれた蔵も立ち並んでいました。材木や油、干鋼など様々な物を積んだ船が油堀を行き来していました。
油堀を富岡八幡宮へ進んでいくと、小説で有名な稲荷寿司屋台の富岡橋があり、この橋は歌舞伎「髪結新三」の舞台として「闇魔堂橋」の名前でもよく知られています。
中之橋跡
中之橋は、中之堀の隅田川口に架かっていた橋です。中之堀は、かつて隅田川と現在の大島川西支川とを結んでいました。今は一部が埋め立てられてL字形に残っています。
中之堀は、寛永6年(1629)に佐賀町ができた時にすでにあったと伝えられていることから、中之橋も当時から当地に架かっていたと考えられます。
元禄12年(1699)の元木場の移転にともない、中之堀の川幅は10間へ広げられ、仙台堀の上之橋、油堀の下之橋とともに幕府により架け替えられています。それまでは、元木場の材木問屋たちが維持管理していました。
上之橋、中之橋、下之橋と並ぶ様子は、隅田川下流を代表する独特な景観をつくりだしていました。
◆ワークセンターつばさ
参考
https://www.fukunavi.or.jp/fukunavi/controller?cmd=lst_dt&actionID=jgytik&SVCSBR_CD=342&JGY_CD=1310800687&ROW=0&JGY_CD1=&JGY_CD2=&JGY_CD3=&JGY_CD4=&JGY_CD5=
後の建物「mediceo」を調べてみた。
『株式会社メディセオは、東京都中央区に本社を置く、医療用医薬品や医療機器等の卸売事業を行う企業で、メディパルホールディングスグループの中枢を担っている。
2009年10月に株式会社クラヤ三星堂(くらやさんせいどう、KURAYA SANSEIDO Inc.)から社名変更した。 』
メディセオ - Wikipedia
続く。