2022/04/28 木場散歩 06 西洲崎橋/慰霊碑/木場六丁目児童遊園/木場洲崎神社/新田橋/木場駅

永代通り少し南側の路地を北西へ進み、木場駅でとりあえずゴール。






◆西洲崎橋

下は大横川南支川。











◆慰霊碑

戦災殉難者供養塔とある。










◆木場六丁目児童遊園








◆木場洲崎神社

以前お参りに来たことがある。
2017/06/09 東陽町散歩 02 汐浜橋/洲崎神社/新田橋/木場公園/木場橋/木場親水公園/繁栄稲荷/舟木橋跡/平野橋 - ovanの社会科見学



 当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神市杵島比売命を斎祀しております。創立は徳川五大将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年、江戸城中紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、珠に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
 明治五年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎して居りましたが昭和43年現在の社殿を造営し斎祀して現在に至っております。


豊川稲荷神社


於六稲荷神社


弁天社


玉の輿たまちゃん

五代将軍·徳川綱吉公の生母桂昌院(幼名=お玉)は八百屋の娘から武士の養女·公家出身の尼僧の侍女へ
そして将軍家光の側室にまで上り、立身出世した事から、桂昌院が「玉の輿」の語源·代名詞となったことが額(うなず)けます。
当社は一七OO年に桂昌院が建立したのが始まりです。


名人竿忠之碑

和竿 中根喜三郎 ー平成12年度制作「伝統に生きる」ー/荒川区公式サイト



波除碑

 寛政三年(1791)、深川洲崎一带に襲来した高潮により、付近の家屋がこと ごとく流されて多数の死者。行方不明者が出た。幕府はこの災害を重視し、洲崎弁天社から西方一帯を買い上げて空地とした。その広さは東西二八五間余、南北三○間余、総坪数五四六七坪余(約18000㎡)に及んだ。そして空地の両端の北側地点に、波除碑を二基建立した。建設は寛政六年頃で、当時の碑は地上六尺、角一尺であったという。
 現在は二基ともかなり破損しており、特に平久橋碑は上部約三分の二を失っている。碑文は屋代弘賢と言われているが、二基ともほとんど判読不能である。「東京市史稿』によれば、「葛飾郡永代浦築地 此所寬政三年波あれの時家流扎永代浦築地 此所寛政三年波あれの人死寸るもの少からす此後高なみの変はりかたく流死の難なしといふべからす是によりて西は 入船町を限,東ハ吉祥寺前に至るまて 凡
長二百八十五間余の所 家屋とり払ひあき地になしをかゝもの也 寛政甲寅十二月日」と記されていたという。
 材質は砂岩で、総高は平久橋碑が130.8cm、洲崎神社碑が60.1cm。現在の位置は、旧地点を若干移動しているものと思われる。 江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要なものと思われる、江戸時代の人々と災害の関係を考える上で重要な資料である。










◆新田橋

下は大横川。
以前来たことがある。
ovanrei.hatenablog.com






新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場五丁目から木場六丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋です。
大正時代、岐阜県から上京し、木場五丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが
、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の人たちを協力して架けられたものです。
当初「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人びとから愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。









木場駅

東京メトロ東西線木場駅





工事中とのこと










続く。