2023/02/06 閻魔堂(十王堂・玉井寛海法士の墓・十王堂一宇建立の碑)



焔魔堂の由来

 江戸時代から村人達の信仰を集めていた閻魔堂の由来は、向台共同墓地内にある十王堂一宇建立の碑(市指定文化財)により知ることができる 碑面には、建立当十王堂一字十王尊像共」と刻まれており、 十王堂の建立年月日は
「延亨二稔歳次乙丑天 十月大吉祥喜日」 (西暦1745年) とある。
 十王は冥府(次の世)で死者の罪状の軽重を決める判官の総称で、閻魔大王は、この十王の第五位に記されている。 生前、十王に対して供養を行った者は、死後十三の裁判を受けるとき業 を軽くすることができるといわれ、この思想が庶民の信仰を深めることになった。閻魔大王は十王の中心的な役割を果たし、教観法師によりお堂が建設された当時は、「十王堂」と呼ばれていたものが、いつしか「閻魔堂」として親しまれるようになったと言われている。
 この閻魔堂で、寺子屋が開かれ、学制施行の明治五年頃まで怪職玉井寛海法士が子供達に読み書きを教えていた。 田無村が町となった明治十二年以後、筆子達により師賞海法士の記念碑が建てられ 現在向台共同墓地内に市指定文化財として保存されている。石碑には、約八十六人の筆子の名前が刻まれており、 向台地区の子ども達のほか、上保新田(現保谷市新町) や関前村(現武蔵野市関前)からも通っていたことがわかる。女性に学問は不用とされていた時代に、二人の女性の名前が見られるのも意義深い。
 厚い信仰心に守られてきた閻魔堂は、昭和二十年の戦災でおしくも焼失してしまい、当時を偲ぶことができなくなっていたが第五区・第六区農産組合により、に再建されることとなった。





◆石塔







◆玉井寛海法士の墓/十王堂一宇建立の碑


玉井寛海法士(たまいかんかいほうし)の墓

 玉井寛海法士は、閻魔堂の住職でした。また、明治の初め閣魔堂に寺子屋を開き、向台近在の子供たちに読み書きを教えた先生でもありました。
 この墓は、台石に刻まれている筆子(生徒)の有志八十六人が、恩師寛海法士の墓塔を建て、その恩に報いたものです。
 明治五年(1872)に学制が施行されるころまで続いたと思われるこの寺子屋の規模については、記録がないので台石の筆子連名から推察するほかはありません。
 向台からの筆子が多かったようですが、上保谷新田(現西東京市新町)、関前村(現武蔵野市関前)から通った筆子もいました。当時、女性に学問は不要とされていましたが、台石の筆子連名の中には平井サキと野ロサノという二人の女性の名前を見ることもできます。
 建立の年代は不明ですが、台石に「田無町」とあることから、田無に町制がしかれた明治十二年以降の明治十四、五年ごろと思われます。


十王堂一宇(じゅうおうどういちう)建立の碑

 向台には、かつて「閻魔堂」という堂字がありました。この堂字は地域の農民の寺院、集合所であり、また、寺子屋も開かれていました。
 この碑には、延享二年(一七四五)に教観法師が堂宇を再建し、十王のうちの閻魔王像と対をなす奪衣婆像の一体を奉納したことが刻まれています。
 十王の思想は中国の道教の影響を受けて成立しました。これによると冥土では十人の王が、死者の生前の罪科を七日ごとに裁断するといいます。この十王のうち、五番目の王が閻魔王です。江戸時代の中期から閻魔王は十王の代表とされたので、この堂宇も建立した当時は「十王堂」と呼ばれていましたが、いつの間にか「閻魔堂」と呼ばれるようになりました。
 また、碑の左側には延享三年の石橋供養の陰刻があることから堂宇建立の翌年、石橋供養を兼ねてこの碑が建てられたようです。
 なお、教観法師は、密造院(総持寺)に籍を置いたともいわれますが、経歴等については明らかではありません。









場所はこちら