福島橋で大島川西支川をまた渡ったところ周辺を散策。
◆福島橋
下は大島川西支川。
◆澁澤倉庫発祥の地・バンダイナムコ
澁澤倉庫(本社)の奥にバンダイナムコの看板が見える。
「我が国の商工業を正しく育成するためには、銀行・運送・保険などとともに倉庫業の完全な発達が不可欠だ。」
日本資本主義の生みの親である、澁澤栄一は、右の信念のもと明治三十年三月、指定に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。
日本資本主義の生みの親である、澁澤榮一は、右の信念のもと、 明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫部を創業した。この地は、澁澤倉庫発祥の地である。
澁澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。この藍玉の商いをするときに使用した記章が「ちぎり・りうご」であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として組織を改めたが、この記章は、現在も「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。
澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
渋沢栄一宅跡
渋沢栄一は、明治から大正にかけて の実業界の指導者です。天保十一年(1840) 武藏国棒沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。二十五歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました 。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野T近代企業の確立に力をそそぎました。晚年は社会公共事業 に貢献し、昭和六年(1931)九十二歲で没しました。
栄一は、明治九年(1876)に深川福住町(永代二)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二十一年(1888)に は、兜町(中央区)に本邸を移Lたため、深川邸は別邸として利用されました。
栄一と本区との関係は深く、明治二十二年(1889) がら同三十七年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三十年(1897)、当地に渋沢倉庫部をと創業しました。大正五年(1916)、実業界を引退するまでに五百余の会社設立に関与したといわれて主すが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭燒陶器組合などがあげれれます。
◆永代二丁目歩道橋
下は永代通り。
◆八房海上稲荷神社
続く。