24時間勤務アケで、東京メトロ東西線茅場町駅から同じく日比谷線人形町駅まで散歩。
駅から永代通りを東へ行き霊岸橋で亀島川を渡る。
大栄稲荷神社にお参りした後は同じ橋を戻り、平成通りにぶつかったら南へ移動。
◆霊岸橋
下は亀島川。
橋の北側には日本橋水門があった。
◆兜町交差点
◆坂本町公園
「こども像」は昭和4年 (1929) に 関東大震災後の復興事業により設置されました。 第二次世界大戦による焼失を免れ、1世紀の長きにわたって地域の皆さんを見守ってきてくれました。 この像は、 令和3年の坂本町公園の再生にあたり、原形を踏まえ、平和への願いを込めて新しく創り出されたものです。 坂本町公園とそこで過ごす人びとを見守ってほしいとの思いが込められています。
坂本町公園の歴史
● 東京ではじめての市街地小公園 (明治22年, 1889年)
坂本町公園は、明治22年(1889) 東京市区改正設計に基づく最初の市街地小公園として元警視庁の避病院跡を活用し開設された由緒ある公園です。 新しい首都の形成を目標としていた東京府は、稠密な市街地に新鮮な大気を提供する園林と空地が、 衛生上、必要であると考え、美観の向上、避難地、学校の校庭としても活用できるコミュニティ公園を 阪本小学校に隣接し創り出しました。
設計者は、東京府の長岡安平(ながおかやすへい) で、小高い丘を囲み芝生広場が整備され、エンジュ、椎ヒノキの森、四季折々の梅櫻楓が植栽されました。 園路沿いには江戸以来の七草 (ななくさ) が植えられ、 ガス灯が設けられ風雅な涼亭 (売茶亭) で思うことのできる近代公園が誕生しました。 長岡は、その後、全国の近代公園設計のパイオニアとして活躍しました。
●関東大震災からの復興 (昭和4年,1929年)
大正12年 (1923) 関東大震災の発生により当該地域は焦土と化し、 坂本町公園は、避難民の収容施設や仮校舎用地として利用され、奇しくも、 非常時における都市公園の役割を担うこととなりました。 復興に伴う区画整理により公園の位置は、やや南に移り南北に長かった地形が東西に長い形となりました。 昭和4年(1929) に竣工し、 人々の憩いの場として親しまれてきました。
設計者は、長岡を師と仰いだ、 東京市公園課長・井下清 (いのしたきよし) で大小2つの円からなる広場と緑陰池泉が整備され、 震災で亡くなった人々への鎮魂の思いをこめた 「こども像」 が、 水飲み場に併設して設けられました。 小学校と公園を一体化して整備が行われていた明治期の坂本町公園の考え方は、東京の52ヵ所の復興公園 (十思公園 久松公園等) で継承され、 全国各地のコミュニティ公園の模範として、多くの都市で展開されていくことになりました。
● 受け継がれるコモンズ (戦災復興~21世紀、1945年~2021年~)
第二次世界大戦により、 東京都心は焦土と化しました。 戦後整備された公園には、広場、遊具、プール等が整備され、地域の人々の共有の場「コモンズ」として活用されてきました。 平成28年(2016) 阪本小学校の建て替えが行われることになり、仮校舎の建設のために坂本町公園は、三度目の再生を行うこととなりました。 再生にあたっては、 中央区、 阪本小学校、 日本橋七の部連合町会、地元企業、 中央大学等がワークショップを開催し、検討を重ねてきました。最も大事にしたことは、 「こども達の夢」の実現です。 「自然の中で思いっきりあそびたい」という夢が、 おおらかな芝生の丘、小川となって実現しています。 江戸東京400年の歴史文化を踏まえた、 七草の庭も整備され、地域のかけがえのないコモンズが、力強く受け継がれています。
坂本町の歴史・文化
江戸時代に埋め立て造成された現在の日本橋兜町 日本橋茅場町の地区は、武家地を中心とする江戸幕府要衝の地として発展しました。 明治維新後は、政府公共機関が置かれた他、日本で初めての銀行や証券取引所が発祥し、金融・経済の中核地として発展しました。
現在の坂本町公園の場所は、江戸時代に熊本藩細川家の屋敷として利用されていた土地で、明治期の武家地収公に伴って官有地となった後、 当該地に坂本町公園や阪本小学校などが設けられました。 その後、 大正期の関東大震災や昭和期の空襲など度重なる災害からの復興を遂げ、公園整備を継続しながら現在に至っています。
なお、公園名である 「坂本町」は、江戸時代から明治期まで使われていた当地の旧町名です。町名の由来は、山王御旅所 (日枝神社) へ向かう道の門前町であったことから、 近江比叡山麓に鎮座する日吉大社 (日吉・日枝・山王神社の総本宮) の門前町である坂本村 (現在の滋賀県大津市坂本) になぞらえて名づけられたといわれています。
●第一番官立小学 阪本学校 創立 明治六年三月
中央区立阪本小学校は、 明治4年 (1871) の文部省設置および明治5年 (1872) の 「学制布告」 により明治6年3月に 「第一大学区第一中学区第一番官立小学阪本学校」として創立した学校 (付属幼稚園は明治28年に開園) です。 当校は、日本の公立学校創生期に創立した 「一番学校」としての歴史と伝統を今日に引き継ぐ小学校です。
同校の出身者には、 文豪・谷崎潤一郎、 元宮内大臣・石渡荘太郎、 一橋大学長・山中篤太郎、歌舞伎名優・市川左団次 杵屋六左衛門などの著名人がいます。
なお、 現在の校舎は令和2年に完成したもので、 全天候型の屋上校庭 (運動場) 庭園を備えた環境や省エネにも配慮された建物となっています。
●地域の文化:神輿
中央区まちかど展示館に展示されている神輿は、 山王祭で担がれているものです。祭りの際には、 公園内に地域町会の御仮屋や御神酒所が置かれ、公園に面した平成通りは茅場町日枝神社から京橋 日本橋にかけて練り歩く下町連合渡御(とぎょ)のルートになっています。
●旧坂本町(現在の日本橋兜町)の沿革
江戸時代
現在の日本橋兜町と日本橋茅場町の一帯は、武家地を中心とする場所でした。 現在の坂本町公園の場所には熊本藩細川家の屋敷がありました。
阪本小学校開校
阪本小学校が開校した頃の旧坂本町の様子です。
阪本小学校が建てられた官有地には、 警察署・消防署・避病院などの施設が置かれました。
坂本町公園開園
坂本町公園が開園した頃の旧坂本町の様子です。
開園当初から関東大震災による整備前まで、公園の敷地は南北に長い形状でした。
関東大震災後
震災後の区画整理に伴い、旧坂本町は旧兜町二丁目となりました。 この時に整備された坂本町公園の敷地は今日まで引き継がれています。
この展示館は、この地域一帯[兜町・茅場町]の伝統文化財 資料等を展示しています。
当地域は江戸時代以前は湾岸部の入江の砂洲帯でしたが徳川開府 (1603~)以来、埋立て開拓が進み、寺社 武家地を形成し、寛永年間(1624~44) には江戸鎮守・赤坂山王日枝大社の御旅所として日枝神社摂社が造営され、町場には儒学者の荻生祖徠や俳人の宝井其角等、 数多くの文人や御典医が居住、享保6年(1721年)には町奉行支配の与力・同心の組屋敷地となり、また江戸湾口、隅田川河口部の水運に直結する地勢により物流拠点として酒問屋、米問屋、材木商、 両替商などの商家のほか、寺子屋・私塾・寄席等も多く散在し、江戸幕府要衝の地として発展しました。 特に、明治維新(1868年)に始まる近代日本の黎明期以後、 武家地は官有地となって民部省通産司(明治元年1868) など多くの政府公共機関が建設され、 更に官地から民間地への払下げが進められ、渋沢栄一翁を先駆として我が国の金融・経済・商業の中核地として発展しました。
続く。