平成通りは北西方向に曲がっていくので、それに合わせて進んでいく。
鎧橋で日本橋川を越えて、さらに進んでいく。
◆東京証券取引所
以前中を見学したことがある。
2015/02/26 part1 東京証券取引所 - ovanの社会科見学
◆「和」像
大和茅場町ビル前にあった像。
作者名などわからなかった。
◆鎧橋
下は日本橋川。
鎧橋が最初に架かったのは明治五年で、当時の豪商が自費で架けたのが始まりです。橋が架けられたのと前後して米や油の取引所、銀行や株式取引所などが開業し、この地は大いに賑わいました。
その後、明治二十一年には鋼製のプラットトラス橋に架け替えられました。
その頃の様子を文豪 谷崎潤一郎は「幼少時代」でこんな風に書いています。
「鎧橋の欄干に顔を押しつけて、水の流れを見つめていると、この橋が動いているように見える・・・・・・
私は、渋沢邸のお伽のような建物を、いつも不思議な気持ちで飽かず見入ったものである・・・・・・
対岸の小網町には、土蔵の白壁が幾棟となく並んでいる。このあたりは、石版刷りの西洋風景画のように日本離れした空気をただよわせている。」
現在の橋は昭和三十二年七月に完成したもので、ゲルバー桁橋とよばれるものです。
橋の外側に間隔を置いて突き出ている鉄骨が、ごつごつした鎧を感じさせます。
メイゾン鴻乃巣(こうのす)創業の地
メイゾン鴻乃巣は、明治四十三年(1910) 夏、奥田駒蔵(1882~1925、京都府出身)が日本橋区小網町二丁目河岸地(鎧河岸) の鎧橋の袂において開業したバーを兼ねた西洋料理店でした。 駒蔵は横浜のホテルでフランス料理の修業をし洋行の経験をもったといわれます。 「西洋料理 鴻乃巣 KONOSU, FIRST CLASS BAR」の看板を掲げ、「メイゾン鴻乃巣」と名乗りました。
三間間口の一階は西洋風のバー、二階は畳敷きの部屋で窓からは日本橋川が望め、魚河岸などに行き交う小舟が浮かび、水鳥が飛び交い、江戸橋あたりには江戸の面影を残す列蔵が広がっていました。夜は黒く澱んだ川面に映る人家の明かりは青白く、赤く、あるいは黄味がかった灯影を映していました。
その頃の若い詩人や作家や画家の間に、西洋の新しい風潮と江戸趣味が風靡していました。 メイゾン鴻乃巣はそんな芸術家たちの心をとらえ、かれらの溜まり場となりました。
ここに集まった人々は、木下杢太郎(もくたろう)、高村光太郎、吉井勇、武者小路実篤、志賀直哉、里見弴(とん)、郡虎彦 (こおりとらひこ)(萱野二十一)、永井荷風、三木露風、小山内薫、谷崎潤一郎、市川猿之助、上田敏(びん)、石井柏亭(はくてい)、山本鼎(かなえ)など、『スバル』、『白樺』、『三田文学』、『新思潮」、そして「パンの会」などに拠った人々たちでした。
木下杢太郎は、メイゾン鴻乃巣の情景を詠んだ詩「該里酒」を駒蔵に献呈しています。
メイゾン鴻乃巣は日本近代文学史の一ページを飾る場所でした。
メイゾン鴻乃巣は大正三年(一九一四) 春頃までこの地で営業を続け、以後、日本橋区通一丁目食傷(しょくしょう)新道(現、日本橋一丁目)、さらに京橋区南伝馬町三丁目(現、京橋二丁目)へ移転し、大正十四年十月に閉店しました。
◆ぺんてるビル
こちら本社ビルでよいのかな?
テナントとして一部を貸し出しているようだね。
続く。