2022/01/13 日比谷散歩 02 大手町川端緑道/鎌倉橋/電力中央研究所/読売新聞ビル/東京駅/三菱一号館美術館/明治生命館

大手町周辺を散策。




◆大手町川端緑道



 大手町川端緑道は、大手町連鎖型都市再生プロジェクトとして独立行政法人都市再生機構が施工している大手町土地区画整理事業により日本橋川沿いに整備された歩行者専用(延長780m、幅員約12m)です。
 大手町は、江戸時代以降日本の行政・文化の中心地として、東京の歴史的な記憶を内包しながら発展した場所です。大手町川端緑道での今後の様々な活動が絵巻物のように物語として展開されるという意味を込めて「日本橋川環境絵巻」というコンセプトのもとにデザインしました。



水辺空間の変遷

 この緑道(大手町川端緑道) は、日本橋川に沿って錦橋から JR 橋まで約 800m続く歩行者専用道路です。大手町地区再開発に伴い、 新たな川べりの空間として整備されましたが、地区の骨格は江戸時代につくられた外堀に始まります。 その後、明治、 大正、昭和、平成と土地の記憶を重ねながら現在にいたります。
 徳川家康天正 18 年(1590) に当時湿地の多かった江戸へ入ると、自然を活かしながら城下町として改造し、水路を整備し水運を整えました。 安価で大量の物資が運べる水上交通は当時の交通網の主役で、米をはじめ、様々な物資が運搬されていました。近世の人々は、経済、生活のあらゆる面で水に結び付いた暮らしをしており、江戸は水運の発達した「水の都」となっていきます。
 明治維新をむかえ近代に入ると、道路の整備、 鉄道の敷設など陸上交通が発達し、 反比例奥空間して水上交通は衰え、 水辺空間の重要性も忘れられていきました。 大きな転換期は高度経済成長期の東京オリンピックの開催前後に行われた都市の改造でした。 道路の用地には河川運河など公用地が利用されたため、水路は埋め立てられ、高速道路の下に隠れてしまいました。近世以来馴染んできた景観は消えていきました。


江戸水の都

 江戸城築城にともないこの地は武家地となり、 老中や親藩、譜代の大名の屋敷がおかれました。横を流れる川は城下町整備で平川の河口がつけかえられ外堀となり、日本橋川と呼ばれるようになりました。幕末時の地図によると、錦橋から神田橋の間あたりは御三卿一橋家、 神田橋から小紋広場を通って鎌倉橋あたりは徳川四天王のひとつ、譜代大名の出羽鶴岡藩酒井家、鎌倉橋からJR橋は徳川御家門筆頭の大名家の越前福井藩松平家上屋敷であったことがわかります。 外堀を境に神田側は細かく地割され、 江戸城の石材が荷揚げされていた鎌倉中河岸があり町人地の中心としての様子がみられます。
 江戸のまちは陰場道によってつくられていました。 陰陽道では鬼門(北東)の方向から入り込んだ自然のエネルギー (気) が南西へ流れていくとされていて、その気に悪いものが流れこむと気が乱れ、その地に疾病や天災などの災いをもたらすと考えられていました。 そこで、江戸城から北東にあたる位置に寛永寺(上野)を建て、気を浄化させ、 南西に流れていく通り道に上記のような徳川家とつながりのつよい大名などを配置しました。 ちょうどこのあたりは北東から流れてきた気をさらに浄化する役目をにない、 続く大名小路へ流していく場所だったと考えられます。 気の出口にあたる桜田門外から南西方向のエリアには外様大名がおかれ、悪い気が入らないようにしました。
 現在この緑道で日本橋川へかかる橋は錦橋、神田橋、鎌倉橋、JR 橋と 4つですが、当時は神田橋のみでした。 神田橋は将軍の御成門であり、大番所として桝形の見附がある神田門から延びていました。 対岸に江戸城築城の石材を荷揚げする河岸場があったので、 当時重要な役割を果たしていました。 この緑道のある大手町の由来は江戸城大手門の東側にあたり、江戸時代は「大手前」と呼ばれていたことからきています。



江戸の経済と水運
近世は農民による米の生産と、 商人による米の流通を中心に社会が成り立っていました。江戸は隅田川を介して関東の水系を網羅する利根川に通じており、それを取り込む水運を整備したので、物資は水上交通によって運搬されました。 幕府の中央都市だけでなく関東経済圏の中心地としても発展しました。

水辺の信仰
日本では古来水辺の空間は、 神や霊の世界との接点であると考えられてきたため、 神社や寺院などが多数設けられ、 神聖な宗教空間を形成してきました。 これらを中心に水辺に名所が生まれ、盛り場としても発展しました。 浅草の「三社祭り」 などは水辺の信仰として当時は舟祭りだったことが「東都蔵時記」 に描かれています。

江戸の上水
江戸は人口増加にともない上水を整備しました。 (低地の埋立地では井戸を掘っても塩分を含んだ水でした。) 神田上水玉川上水、龟有上水、青山上水三田上水千川上水の6上水が作られましたが、 後に神田、玉川以外は廃止されました。その後、技術も発達し岩盤も打ち抜く「堀抜き井戸」が普及しました。

河岸の賑わい
幕府は江戸の町に、 自然の川の付け替え、 新たな運河の掘削など改造を施し、計画的な水路のネットワークを形成しました。(*河岸とは川の沿岸のこと。 物資の運搬、 輸送のための水路の際に作られた施設。 さらには、 そのような施設を利用する流通機構=廻船問屋の組織を意味する場合もあります。)

遊興空間
江戸の四季折々の遊びは水辺の空間とも密接に係わっていました。代表的なものは花見、 川開きの花火、 潮干狩り、月見などがあります。また江戸の文化形成に重要な役割をはたした芝居と遊郭も水辺の空間と結び付きながら成立しました。 それらに遊びにいく人々が使った端爽とした猪牙舟は江戸を象徴した
乗り物でした。


明治から平成の東京

明治維新をへて新政府がかかげた 「富国強兵」の実現のため、 宮城(きゅうじょう 現:皇居)を中心とした都心部に大兵力と官庁機能が結集されました。このあたりの藩邸は面積が広く勤蕃侍の長屋などの設備があったため、 兵営や練兵場として利用しやすく、 官庁に旧大名藩邸をそのまま転用することができました。大手町1丁目にあたる御三卿一橋家跡地は陸軍や近衛騎兵大隊の用地となり出羽鶴岡藩酒井家、 越前福井藩松平家上屋敷など、大手町2丁目にあたる地区は、大蔵省や文部省などの用地や御雇外国人居留地などとなり、後に印刷局東京電話交換局などがおかれました。すべてが変化していく中、 交通の主役も水上から陸上へ少しずつおきかえられていきました。乗り物では人力車にはじまり、乗合馬車、 馬車鉄道、 明治後期になると電車、 タクシー、 バス、 鉄道と現れました。
大正時代に入ると、陸上交通機関はさらに発達していきます。 丸の内のビジネス街としての地位を決定づける中央停車場駅 (東京駅) が大正3年(1914) にでき、それまで市内電車だけのこの地区を変えました。 大正8年 (1919) には中央線東京-万世橋間の延線開業にあわせて日本橋川に鉄道橋がかけられ、 新しい橋が生まれました。 しかし、その4年後大正 12年(1923)の関東大震災で、 外堀の石垣や江戸時代からかけられていた神田橋が倒壊します。その後震災復興橋として、神田橋の再建(大正14年)だけでなく、新たに錦橋(昭和2年)鎌倉橋(昭和4年)が作られました。(*現在の神田橋は昭和 55 年地下鉄千代田線の工事にともない架け替えられたものです。)
昭和に入り、第二次世界大戦を経験し、高度成長期を迎えていきます。 東京オリンピック開催前後には都市の改造が行われて、首都高速道路が建設されました。 ここ日本橋川を通る首都高4号線は昭和 39 年 (1964) に神田-初台間をつなげ、東京の交通事情と景観を一変しただけでなく、江戸からの空間としての位置づけも大きく変えていきました。



神田錦町での大学の始まり
歩道の対岸にあたる一橋門外の神田錦町にて、のちの東京大学である開成学校が始まりました。 前身は幕末の国際情勢の激変に応じて開設された幕府の教育機関である蕃書調書でした。明治6年(1873)から明治17年(1884)までの短い期間でしたが、武家屋敷を学校町へ一変させるだけの効果がありました。

陸路の発達
日本橋川にかかる首都高速4号線 (神田-初台9.8km) は昭和39年(1964)8月に建設されました。当時の東京は自動車が急增、各地で洗滞が頓発、放置すればやがて交通麻痺に陥ると予測され、問題を解決するために建設されました。 同年10月に東海道新幹線が東京一大阪間で開通しました。その区間をひかりが4時間でつなぎ時間距離を一挙に縮め、 ビジネスや旅行の概念を一変させました。

橋の変化
神田橋は江戸時代に将軍が上野の寛永寺へ参拝するときに利用していた見附橋です。明治17年(1884) に木橋に改架、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。震災後、復興事業で鋼製の桁橋になりました。(その時、錦橋、鎌倉橋も架けられました。)現在の橋は昭和55年 (1980) 下を走る地下鉄千代田線の工事に伴って架け替えられたものです。

明治以降の東京の交通事情
西洋文化が一気に押し寄せ、移動手段も様変わりしました。明治5年(1872) 9月に新橋-横浜に日本初の鉄道が走りましたが、中央停車場(東京駅)は大正3年(1914)に完成しました。お茶ノ水止りだった中央線が大正8年(1919) に東京駅まで延線し、現在の鉄道橋の原型が日本橋川にかかりました。 関東大震災でもこの橋は残りました。

丸の内地区再開発
1990年代後半から丸の内地区の魅力を高めようと再開発が始まりました。ビジネスに特化した街から商業や文化の発信拠点などの「多様性のある街」への転換を目指しました。 平成14年(2002)8月に完成した丸の内ビルディングをかわきりに街が大きく変わり、華やかなショッピング通りになった丸の内仲通りは、 この大手町歩道ともイベント広場でつながっています。












◆鎌倉橋

下は日本橋川












電力中央研究所

一般財団法人電力中央研究所(いっぱんざいだんほうじんでんりょくちゅうおうけんきゅうじょ)は、電気事業に関連する科学技術・経済・政策の研究開発を行う研究機関である。電中研、電研などの略称が用いられることもある。英語名はCentral Research Institute of Electric Power Industry。CRIEPI(クリエピ)と略される。50年以上にわたる研究活動をもとに、電気事業に関して先駆的な提言を行っている。 』
電力中央研究所 - Wikipedia

一度来たことがある。
2017/10/24 03 大手町散歩 電話交換創始の地/呉服橋跡/電力中央研究所/サンケイビル(箱根駅伝)/江戸城築城 - ovanの社会科見学


一般公開で、他地区にある研究所へお邪魔したことがある。

赤城試験センター
2012/05/20 mingさんの案内による群馬の工場ツアー - ovanの社会科見学


我孫子地区
2016/10/12 part2 電力中央研究所(我孫子地区)「地球のお医者さん物理探査」 - ovanの社会科見学

ovanrei.hatenablog.com

2017/10/14 電力中央研究所 我孫子地区 一般公開 - ovanの社会科見学


狛江地区
2016/10/23 part2 電力中央研究所 狛江地区 一般公開 - ovanの社会科見学












◆読売新聞ビル














◆東京駅












三菱一号館美術館

建物の中へは入らなかったが敷地内にオブジェがあった。


拡散する水 1977

アギュスタン・カルデナス(キューバ・フランス)


うずくまる女№3 1971

エミリオ・グレコ


恋人たち 1981

バーナード・メドウズ(イギリス)















明治生命館

明治生命館(めいじせいめいかん)は、東京都千代田区丸の内二丁目にある建築物である。設計は岡田信一郎・捷五郎(兄弟)、構造設計が内藤多仲重要文化財には「明治生命保険相互会社本社本館」として指定されている。 』
明治生命館 - Wikipedia












続く。