2022/05/25 日本橋散歩 02 新大橋/大廣神社/中央区立あやめ第一公園/清洲橋/金刀比羅宮/首都高速6号向島線/濱町神社

新大橋で隅田川を渡る。
ほぼ首都高速6号向島線沿いに南西へ向かう。




◆新大橋






 新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄8年(1693) に架けられました。 この橋の架設により江戸市中との交が便利になり、深川の発展に大きく影しました。初めは、現在地より約200mほど下流に架けられていましたが、明治45年(1912) 7月鉄橋となり現在地に架替えられました。
 昭和52年、現在の新大橋に架替えられ、旧鉄橋は明治の面影をとどめる橋であることから、 愛知県の明治村へ移され保存されています。



 新大橋は、元禄6年(1693)12月7日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。
 両国橋が、万治2年(1659)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、 その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。
 その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋架橋を喜んで次の句をよんだ。

  初雪やかけがかりたる橋の上 

  有難やいただいて踏む橋の霜

 以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治45年(1912)2月19日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。
 この鉄の橋は、関東大震災(1923)および太平洋戦争の大空襲(1945)にも耐え、橋上において多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。
 その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和52年(1977)3月27日、現在の橋に架けかえられた。
 なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。












◆大廣神社



大廣神社の縁由
ご利益 「商売繁盛 厄災除け 学業成就」
当社は、大橋稲荷神社に末廣稲荷神社を昭和四十二年(1967年)に合祀し、双方の一文字を取って、大廣神社(祭神「倉稲魂命」)と改称致しました。

大橋稲荷神社について
当社の縁由が解る書類は宝暦十年(1760年) 十一月及び寛政九年(1797年)十一月の火災により焼失したため詳細は不明ですが、元禄六年(1693年)江戸幕府第五代将軍徳川綱吉(1646年~1709年)の生母・桂昌院(1627~1605年)が隅田川にかかる橋が少なく不便を強いられていた江戸庶民のために、架橋を将軍に勧めたことによると伝えられております。
その橋は大川(隅田川)にかかる三番目の橋であり、大橋(両国橋)に続く橋ということから新大橋と名付けられました。
そして、架橋する際の安全の鎮守として元禄六年七月に大橋稲荷神社が建置されました。
当初は徳川幕府の取扱いでしたが、文久三年(一八六三年)に町方(町人、町家) に引渡されました。
また、当社地は明治以降に新大橋架け替えや区画整理等により現在の地(東京都中央区日本橋浜町三丁目三十番地六号)に祀られました。

末廣稲荷神社について
当社の確固たる縁由は不明ですが、 区画整理等にて浜町三丁目四十二番地に祀らました。
大橋稲荷神社の縁由については、「東京都神社名鑑」 を参照致しました。













中央区立あやめ第一公園



上は首都高速6号向島線。











清洲橋

下は墨田川。
今回は渡らなかった。



 清洲(きよす)の名は、深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることに由来し、橋の新設にあたって公募されたものである。
 深川の清澄町は、わが国セメント工場の発祥の地であり庭園でも知られ、また芭蕉庵跡にも近い。日本橋中州町は、明和八年(一七七一年)に埋立てを開始して、隅田川畔の繁栄の一翼を担った。その後、中洲埋立地は取り壊され、元の水浸地になるなど、複雑な歴史をもつが、明治九年(一八七六年)に再び埋立てられ新しい土地として生まれかわった。この二つの町を「中洲の渡し」が結んできたが、大震災後の復興事業で、ドイツのケルンの大吊橋に範をとって、女性的な曲線美をもつ吊橋をかけることとなり、昭和三年(一九二八年)この橋は完成した。第二次世界大戦で、ケルンの橋は爆破されてなくなったが清洲橋東京大空襲の中でも、多くの被爆者を救って、幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。



清洲橋の照明灯具
 この灯具は、清洲橋が建設された昭和三年から昭和六十年代まで、橋の吊材に設置されていました。
 現在の灯具は、建設当時の図面を参考に製作し、材質は当時のブロンズ(青銅)から、軽量で強度のあるアルミニウム合金としました。
 また、ランプは省エネルギー効果の高いLEDを採用しました。




 清洲橋は、関東大震災の復興事業によって建造され、昭和三年(1928年)三月に竣功した。
 清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補剛吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。











金刀比羅宮


お地蔵様













首都高速6号向島

こちらをくぐって高速の反対(西)側へ。












◆濱町神社



 濱町神社は、昔時、天明年間(西暦1781年〜1789年)に、島津家下屋敷庭内の守護神にして、島津稲荷大神として、奉齋してありしを、明治二十年(西暦1887年)同所を分譲地として浜町三丁目となりて後も、引き続いて浜町の守護神として、厚く奉齋せり。
 大正十二年(西暦1923年)九月一日の関東大震災に於いて、ご社殿その他を烏有に帰してその後、昭和三年(西暦1928年)五月御社殿を再建の際、当時、神田区西福田町に鎮座せる、山田稲荷を合祀して稲荷神社と改称する。
 その後、戦災に依り、不幸にも、再度消失す。
 故に、昭和二七年、発起人有志多数の協賛を得、町内各位の浄財に依り神社を再建し、昭和二八年(西暦1953年)三月十五日、名称も濱町神社と改称する。
 当地区の再開発に伴い、平成十二年四月十二日(西暦2005年)、濱町神社の遷座祭を行い、現在の様式にて、再建する。
 稲荷神社の御祭神である稲荷大神(倉稲魂神)は、五穀豊穣、産業興隆、家内安全、商売繁盛、子孫繁栄、学業成就、交通安全、火災除け、災難除けの神様としてのご利益も伝えられています。


陶栄神社



御祭神   
埴安大神 (はにやすのおおかみ)
加藤四郎左衛門景正命
加藤民吉命

社殿
住吉造 (摸略)
総釉彩陶器製(常滑秘色燒)

台座
平安期、鎌倉期、江戸初期の古窯より発掘の陶片を以って飾る。

作者
愛知県常滑市
秘色燒 柴山 三郎
製 作 柴山東一郎
設計者 池田 利一
成 昭和四十四年四月二十七日 (再建)











続く。