『円通寺(えんつうじ)は、東京都清瀬市にある真言宗豊山派の寺院。 』
『1340年(興国元年[1])、新田義助の開基である。義助は新田義貞の弟である。
義助は、鎌倉松ヶ岡(現・神奈川県鎌倉市山ノ内)から観音菩薩像を持ち出し、当地で馬が動かなくなったことから、この像を安置する寺を創建したという。この逸話により「駒止観音」と呼ばれている。なお史実の義助は当時中部地方で行動しており、実際には義助の関係者が義助兄弟の菩提を弔うために建てたものと推測される。 』
円通寺 (清瀬市) - Wikipedia
清水山円通寺は、南北朝時代の暦応3年(1340年)に建てられたといわれている清瀬では最も古いお寺で、長屋門、観世音菩薩立像の本尊と前立は、それぞれ市の有形文化財に指定されています。
この円通寺の観世音菩薩立像は、新田義貞の弟新田義助が奥州下向の途中、鎌倉の松ヶ岡から移したものといわれ、それ以来、馬に乗ったままここを通ろうとすると必ず落馬したことから別名「駒止観音」とも呼ばれていました。また円通寺に通じる観音坂は、この観世音菩薩立像に由来するといわれています。
円通寺 觀世音菩薩立像
(寄木造 漆箔一部彩色像高七〇㎝)
この観世音菩薩像は聖観音ともいわれ、下半身の安定のよい、ひきしまった姿をしており、室町時代の様式を色濃く残しています。
この仏像の胎内から三枚の棟札が発見されました。 一枚は正保五年(1646~江戸時代初期)のもので仏師孫右衛門の名が記され、一枚は同じ時に書かれたものらしく、村人と思われる名前が記されています。
もう一枚は嘉永二年(1840~幕末期)のもので、仏師内田竹次郎が再建したと書かれています。
観音仏は、現実のあらゆる災難や苦しみを救済する仏さまとして民衆の厚い信仰を受けましたが、特に円通寺の聖観音は馬を持っている人の信仰を集め、縁日には多くの馬が厄除けに集まり、「駒止めの観音」としてにぎわいました。
円通寺 観世音菩薩立像(前立)
この観世音菩薩立像は、本尊の前立として安置されています。小型の仏像ですが、微笑みを浮かべた顔面と均衡のとれたお姿をしています。
寺に伝えられた記録では、南北朝時代、南朝方の武将である脇屋義助(新田義貞の弟)が奥州に下向する際に、鎌倉松ヶ丘から念持仏として奉持してきたものと言われています。
製作年代は明らかではありませんが、造像手法から室町時代以前の製作と考えられます。
弘法大師石造
弘法大師石像の由来 中尾邦三作
尊像は、現住職青木光啓師が、奈良県磯城郡初瀬尋常高等小学校尋常科在学中の同級生にて中尾石材店の長男の作であります。
昭和十三年奈良三十八連隊に志願兵として入隊。
十五年、仙台陸軍教導学校卒業、本隊に復帰、 中部第六
十五部隊師団司令部副官部。
十八年、朝鮮京城府、十九年五月ビルマ派遣狼八七〇一部隊師団司令部副官部付、二十年四月六日ビルマ ヤンノ県ミヤ付近で戦死する。 二十四歳。
お大師像は、入隊前に製作したものであります。
戦後、令弟中尾大人様が、円通寺に訪問の、兄の遺作を初瀬小学校の同級生である青木光啓先生の境内に安置願えればと態々初瀬町から遷座した次第です。
故陸軍准尉中尾邦三君、法名 南龍院忠邦義遠居士
合掌
寄棟 瓦葺
正面 14.1m
奥行 4.7m
もとはかやぶきでしたが戦後瓦葺になおしました。
武蔵野平野部の長屋門は比較的小さいのですが、この長屋門は規模も大きく、柳瀬川・滝の城を背に、清瀬古道に沿って建っている白壁板腰羽目の姿はあくまで端正です。大扉の閂(かんぬき)やくぐり戸のおさえ等に昔の工夫がしのばれ、基本的な使用目的が守られています。
円通寺の記録に「長家門天保十五 庚申年十一月二十五日上棟再建」(1844年住職宥傅の代)とあり、手直しはされていますが、この時建てられたものが今に伝えられているものと考えらます。