◆中島飛行機武蔵製作所工場引込み線跡
武蔵野の戦争の記憶を訪ねて
中島飛行機 武蔵製作所 工場引込み線跡
グリーンパーク遊歩道は、 太平洋戦争中、 今の緑町 八幡町にあった 「中島飛行機 武蔵製作所」 への物資輸送の引込み線跡です。 工場では航空機エンジンを製造し、 昭和13(1938) 年から20 ( 1945) 年まで稼動していました。 引込み線は武蔵境駅から玉川上水までの部分は、 境浄水場の引込み線を利用して工場までの線路を敷きました。 戦争末期には、工場はアメリカ軍の激しい空襲を受け、その際、 引込み線も被弾しました。
戦後、昭和26(1951) 年工場跡の一角に「東京スタジアム グリーンパーク野球場」が開設され、 プロ野球観戦などの観客輸送のため、この付近から線路を敷き直し、 三鷹駅からの国鉄 「武蔵野競技場線」として生まれ変わりました。
しかし、間もなく野球場は閉鎖され、 引込み線も昭和34(1959) 年に廃止されました。
その後、 廃線跡は昭和59 (1984) 年に遊歩道として生まれ変わりました。
武蔵野の戦争の記憶を訪ねて
関前高射砲陣地跡
日本有数の軍需工場であった中島飛行機武蔵製作所周辺には、 米軍機の空襲に備えて、 日本軍によって作られた高射砲や機関砲陣地がありました。 高射砲とは地上から航空機を撃墜するための大砲です。 関前のこの付近には高射砲が6門、 半円形に配置されていました。 市内には、 この周辺以外にも、 現在の成蹊大学や日赤武蔵野病院の敷地内に高射砲陣地が設けられていました。
昭和19 (1944)年11月24日から始まった武蔵野への空襲は、終戦近くまで続きます。 当初の段階で米軍B29 による爆撃は、工場を目標に高度約1万メートル上空から行われました。 日本軍は高射砲で迎え撃ちましたが、 多くの砲弾はその高さまで届きませんでした。 翌年4月12日の空襲では投下された1トン爆弾は、関前高射砲陣地や周辺の住宅にも命中し、 住民に被害が出ました。
場所はコチラ(範囲が広いので大きい地図)