2023/07/07 鈴木稲荷神社(下鈴木)




 鈴木新田は、 武蔵国多摩郡貫井村(現小金井市) の名主鈴木利左衛門の発願によって開発された新田です。 この新田は、玉川上水南沿いの上鈴木、 野中新田善左衛門組と玉川上水にはさまれた下鈴木、
および玉川上水北沿いの堀端鈴木からなっています。
 享保9年(1724) 5月に幕府から開発許可が得られると、 開発宰領人(さいりょうにん)の利左衛門は土地を寄進して、 本村の貫井村に鎮座していた稲荷神社を新田の鎮守として勧請し、同年9月22日に遷祀奉斎しました。
祭神 倉稲魂命




鈴木稲荷神社は享保九年(1724年)九月二十二日武州多摩郡貫井村(現小金井市)の村社を勧請し鈴木町花小金井南町・御幸町産土神(うぶすな神)とし、稲倉魂命(うかのみたまのみこと)大己貴命(おうみなもちのみこと)がまつられ、境内には金刀比羅社・天神社・榛名社・須賀社・白狐社・大六天社がおまつりしてある。
尚。黒松の大木は「松食い虫」におかされ、伐採致しましたので、改めて「社殿鎮座の記念樹」と言われる榧(かや)の木=推定樹齢三百年=が御神木に指定されました。






◆鈴木也神社のケヤキ







◆御神木 榧の木



樹齢推定 300年
樹高約  20m
幹回り  3.9m
御神木「榧の木」は、社殿の鎮座した享保五年(1720) 新田開発の成功と開発地域の繁栄を祈念し、拝殿の南東(巽=たつみ) の位置に植えたものと思われます。
「榧の木」は、「イチイ科」の常緑高木で材質はちみつで腐りにくいので、船材や建材に用いられるほか、碁盤や将棋盤に珍重され、葉はいぶし(蚊やり)につかわれ、カヤリの木からカヤの木になったと言われております。
(小学館 日本国語大辞典)
榧の実は栄養価が高く、夜尿症の薬と言われ、秋には拾いに来る人もありました。
又、アブラは食用・灯火用のほか高級整髪料に利用されたとのことです。
童謡に、「榧の木山の榧の実はいつかこぼれてひろわれて」と言うのがありました。






◆忠魂碑



 大東亜戦争(太平洋戦争)=昭和十二年昭和二十年(1937~1945)に召集され、「祖国の勝利」と「東洋平和の聖戦」と固く信じ、中国大陸をはじめ東南アジア・南方諸地域・太平洋海域・沖縄等の激戦において、圧倒的に優勢な連合国軍との戦いに、勇戦奮闘の甲斐もなく不幸敵弾にたおれ、或いは傷つき、又は病魔に犯され、父母・妻子・恋人の名を薄れる意識の中で呼び続けながら、ふたたび故郷の土を踏むことなく「護国の英霊」となった当地出身の「二十六士」(芳名は裏面参照) の功績をたたえる鎮魂の碑を、戦友並びに氏子の総意をもって建立したものです。
 尚、二十六士は「鈴木町」 「花小金井南町」「御幸町」の十代後半から、三十代前半の心身共に健全なかた方でした。






◆鈴木稲荷神社本殿覆屋の鏝絵



 鈴木稲荷の本殿を覆う白壁の土蔵づくりの覆屋壁面上部に漆喰で立体的に表現した鏝絵があります。
 西面に残る刻書によって、明治初期に田無村の左官職、新倉安左衛門によって作られたことがわかります。
 西面には象が、北面と南面には狐の親子が描かれていますが、西面の象はライオンのような長い尻尾やたてがみ、鉤爪(かぎづめ)をもつなど、象の実物を知らず、伝統的な絵画の手本に従って描いたと思われる点が特徴的です。



 本殿を覆う白壁の土蔵づくりの覆屋の壁面上部には漆喰で立体的に表現した絵が見られます。 西面に残る刻書(こくしょ)によって、 明治初期に田無村の左官職、 新倉安左(にいくらやすざ)によって作られたものであることがわかります。
 西面には象、北面と南面には狐の親子が描かれていますが、 西面の象はライオンのような長い尻尾やたてがみ、 鉤爪(かぎづめ)をもつなど、象の実物を知らず、 伝統的な日本画の手本などに従って描かれたと思われる点が特徴的です。






◆鈴木稲荷神社の黒松



 鈴木稲荷の黒松は、深谷家(鈴木町一丁目)の先祖が入植の折、苗木を鈴木稲荷神社、海岸寺(御幸町)および自宅敷地内に植え、神仏の加護により新田開発が成功するように祈願したものの一本であるといわれています。
 その後、海岸寺の松は枯れ、深谷家の松は空洞化が進んで倒木の恐れが生じ、昭和三十六年に伐採されました。このため現存する松はこの稲荷神社の一本だけとなりました。
 東京都内に現存する松の中でこの稲荷神社の松は、幹周りで十一番目、樹高では四番目に位置する大木です。
樹 齢
推定   290年
太さ   3.8m
樹高   18.5m






◆祠

何が祀られているかはわからなかった。






◆白虎者/須賀社/榛名社






◆金刀比羅社


 柱から梁に至るまでの全面が龍等の彫刻で装飾されています。 龍の口の中に朱が見られる等、 かつては全体に彩色が施されていたと思われますが、 長年屋外にあったため、 これらの彩色はほとんど失われてしまっています。
 正面以外の西、南、北の三面には、 中国の故事にちなんだ情景が彫刻されています。このうち南面の彫刻の裏面には「天保四季(ねん) (1833) 癸(みずのとき) (=巳の誤り)之夏江都浅草 彫巧 小川義長」の墨書(ぼくしょ)があり、この作品が作られた年と彫刻師の名がわかります。



 柱から梁に至るまでの全面に龍等をモチーフにした彫刻が施されています。龍の口の中に朱が見られる等、かつては全体に彩色が施されていたと思われますが、長年屋外にあったため、これらの彩色はほとんど失われてしまっています。西南北の三面には中国の故事にちなんだ情景が彫刻されています。南面の彫刻の裏面には「天保四季癸己巳の誤り)之夏江都浅草 彫巧 小川義長」の墨書があり、この作品が作られた年と彫刻師の名がわかります。






天満宮






◆鳥居







◆山門






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