2023/09/10 正福寺


『創建年代については不詳であるが、鎌倉時代中期に鎌倉の建長寺僧石渓心月の開山により創建されたと伝えられ、開基については執権北条時頼とする説[1]と北条時宗とする説がある。
室町時代の応永14年(1407年)建立とされる地蔵堂は、建造物として国宝の指定を受けている。 』
正福寺 (東村山市) - Wikipedia




◆正福寺地蔵堂



 正福寺地蔵堂は千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内には多くの小地蔵尊が奉納されています。 一木造り、丸彫りの立像で高さが15~30㎝位のものです。 祈願する人はこの像を一体借り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。
 指定されている小地蔵尊は約九〇〇体です。背面に墨書のあるものは約二七〇体で、年号の分かるものは二四体です。 正徳四年(1714)から享保一四年(1729)にかけて奉納されたものが多く、奉納者は現在の東村山、所沢、国分寺東大和武蔵村山、立川、清瀬、国立、小金井の各市にまで及んでいます。 なお地蔵堂内には、1970年代に奉納された未指定の小地蔵尊像約五〇〇体も安置されています。



 地蔵堂の本尊は、木造の地蔵菩薩立像で堂内内陣の須弥壇に安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠をもつ延命地蔵菩薩で、像の高さ127cm、台座部分の高さ88㎝、光背の高さ175㎝、錫杖の長さ137㎝。
 寺に伝わる縁起には古代のものと伝えられ、また一説には、中世のものとも伝えられていますが 昭和四八年の修理の際に発見された墨書銘によって、文化八年(1811)に江戸神田須田町万屋市兵衛の弟子善兵衛の作であることがわかりました。



願いをこめて 小地蔵由来
 ここに納められた小地蔵は毎年十一月三日文化の日に行われている地蔵まつりに有料頒布されたものです。国宝千体地蔵堂におきまして、当山御住職が開眼法要された地蔵様です。
 市内の知的障害者の方々が一体一体心を込めて製作した、味わいのある手造りの木彫り地蔵です。
 ご購入された方の病気平癒、子養育、家内安全、厄除等の願いが込められています。 一年間ご家庭にて大切に保存された小地蔵を当寺に納め御安置するものです。 江戸時代より続いた借り仏信仰の風習を復活した行事です。

正福寺千体地蔵堂と堂内
 この正福寺千体地蔵堂は、都内唯一の国宝建造物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。
 千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物です。 波形欄間、花頭窓、屋根の反りなどに特徴があります。昭和八年~九年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、室町時代の応永一四年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。
 地蔵堂本尊は、昭和四八年の修理のとき文化八年(1811)、江戸神田須田町 万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。
 また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木造が奉納され、堂内の天井に近い長押に置かれ、(写真参照) 千体地蔵堂の名もここに由来します。祈願する人
は、小地蔵尊像を一体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に一体添えて奉納するというもので、像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大きさは十㎝から三十㎝ほどのもので正穂四年
(1714)から享保一四年(1729)のものが多く、奉納者は、地元は勿論、所沢・国分寺・小金井などに及んでいます。





◆観音像





◆鐘楼





◆貞和の板碑



 種子は釈迦如来で、月輪、蓮座を配し、光明真言を刻し、銘は「貞和五配卯月八日、帰源逆修」とあり、西暦一三四九年のものです。 卯月(四月)八日は釈迦の誕生日であり、法名が帰源という人物によって、逆修供養として生前に自分の死後の冥福を祈願し造立されたものです。
 高さ300cm(うち基部の高さ55cm)、幅五51~58.5㎝であり、完全な形をとどめるものとしては都内最大級の緑泥片岩製の板碑です。
 この板碑は、昭和二年にここ正福寺境内に移建されたもので、かつて前川の橋として使われ、経文橋または念仏橋ともよばれていました。それ以前には経文橋から約一〇〇m南にあった自教院(野口町一丁目)の境内にあったと言われています。




◆十三佛石像
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◆石塔






◆山門



 金剛山正福寺は臨済宗の寺院で、鎌倉の建長寺の末寺です。その仏殿である地蔵堂は、応永十四年(1407)建立の典型的な禅宗様建築であり、東京都唯一の国宝建造物です(昭和三年・1928指定)。
 鎌倉幕府執権であった北条時宗か、またはその父である時頼によって開基され、勧請開山は中国南宋の石渓心月仏海であると言い伝えられていますが、確たる史料は現存していません。
 正福寺山門は、昭和四十八年(1973)に行われた解体修理の際発見された、親柱柄(おやばしらほぞ)の墨書銘「元禄十四辛巳年無神月吉祥日建口(者)也、此時住寺號月山(以下略)」から、元禄十
四年(1701)、月山の代の建立であることが判明しました。
 山門の建築形式は、四脚門で切妻、昭和四十八年の修理の際に、茅葺から茅葺形鋼板葺に改修されました。 建築様式は禅宗様で、その規模は、桁行十尺(3.03m)、梁行十尺で、高さも柱底部から桁下端までで十尺となっています。屋根は、かつては、化粧裏板の上に登り、 梁を架けて茅葺としていたものと考えられます。また、彩色は柱、桁、冠木、束等に朱の痕跡が見られ、もともとは全体が朱で塗装されていたものとみられます。





青面金剛庚申塔・文字庚申塔





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