2023/10/11 日野宿東口跡


現地には「日野宿東口跡」についての説明版は見当たらなかった。
高木歯科跡脇の塀にパネル展示がいくつかあった。





◆日野宿と甲州街道

 慶長8年(1603) 江戸幕府が開府されると、 代官頭大久保長安によって甲州街道の整備が進められていましたが、慶長 10 年 (1605) 日野は甲州街道の継場 (宿場)に指定されました。
 当初は府中宿を立つと青柳村(現在の国立市) から万願寺の渡しを渡り、 万願寺一里塚を経て日野宿に至る道筋でしたが、 貞享元年 (1684) 甲州街道多摩川の流路の移動や洪水を避けるために、 府中から柴崎村 (現在の立川市)を通る段丘上に移設され、 それに伴って渡船場の位置が万願寺の渡しから、上流の日野の渡しに移動し、以来、 渡船場経営は日野宿となりました。
 それから約250年の時を経た大正15年(1926)8月、 日野橋が開通し、 この 「日野の渡し」 もその歴史に幕を閉じたのでした。
 なお、渡船場道入口角にあった高木家 (屋号「角屋」)の塀に使われていた煉瓦は明治20年代初頭、 土淵英(つちぶちはなぶさ)、髙木吉造(たかぎきちぞう)、 河野清助(こうのせいすけ)らによって設立された日野煉瓦工場製の煉瓦といわれています。 その煉瓦工場は現髙木歯科医院隣の福地蔵(通称東の地蔵) 近くにあった西明寺(さいみょうじ)跡付近にありました。




◆パネル展示



日野橋竣工間際の日野渡船場

大正末期 佐藤元雄氏所蔵
下流に建設中の日野橋 (写真奥)を臨む渡船場です。 大正15年(1926)にコンクリート造りの日野橋ができるまで、冬は仮橋で、水の多い夏場は渡し船で往来していました。



拡幅工事前後の甲州街道 下町高木家前

 上の写真は東側から見た甲州街道拡幅工事直前の下町の様子です。 右手に見えるのが旧高木家 (屋号「角屋」) です。 塀の一部に使われていたのは日野煉瓦工場製の煉瓦でした。 また左手には現在も残る有山家の石垣が見えます。 下の写真は拡幅工事後の様子です。 道路は全面舗装され、 歩道には大阪窯業製の煉瓦が敷かれました。



多摩川側から見た旧渡船場

 かつての旅人は日野の渡しを過ぎるとこの渡船場道を一路南に進み、 旧高木家(屋号「角屋」、 現新奥多摩街道入口交差点付近) の角を右折し日野宿へと入っていきました。 右手前に広がる田んぼ付近は現在店舗用地となっています。 またその奥、田んぼと接して右方向にのびる道は日野第一中学校方面へ通じています。



高木家(屋号「角屋」) 一下町

昭和50年代 高木憲二氏所蔵
新奥多摩街道入口付近にあった高木歯科医院です。 手前が甲州街道で、 それと交差する道を北 (前方)に進むとかつての 「日野の渡し」 に通じていました。 この写真はこの道路が拡幅される前に記念に撮られた1枚です。 なお、塀に使われている煉瓦は明治20(1987) 年代初頭、土淵英、高木吉造、河野清助らによって設立された日野煉瓦工場製の煉瓦だったともいわれています。







場所はこちら