2023/11/04 神楽坂・早稲田散歩 02 龍門寺/朝日坂/圓福寺/大信寺/袖摺坂/繁榮稲荷神社

前のページからの続き。
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◆龍門寺

お詣りに来たことがある。
2018/09/18 神楽坂散歩 05 長源寺/古今亭志ん朝旧宅/正定院/圓福寺/朝日坂/竜門寺/正蔵院 - ovanの社会科見学


稲荷社


身代わり不動尊


水子地蔵


山門





◆朝日坂

坂下。
一度来たことがある。
2018/09/18 神楽坂散歩 05 長源寺/古今亭志ん朝旧宅/正定院/圓福寺/朝日坂/竜門寺/正蔵院 - ovanの社会科見学



坂上



『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた(『東京府史料』)。

以前来た時から説明版が変わっているね。





◆圓福寺

以前来たことがある。
2018/09/18 神楽坂散歩 05 長源寺/古今亭志ん朝旧宅/正定院/圓福寺/朝日坂/竜門寺/正蔵院 - ovanの社会科見学



久元酉年従三月中旬、駿州岩本安国日蓮大菩薩
六十日之間於牛込圓福寺境內開帳之砌諸講中朝詣之
文久元年(1861年)三月、圓福寺において駿河国岩本實相寺の安国(あんこく)祖師像を六十日間開帳したときの賑わいを描いた版画です。 このときの願主には牛込通寺町(とおりてらまち)、牛込肴町(さかなまち)など圓福寺近辺の二十三町の講中が連名して参加していますが、日本橋、馬喰町、赤坂、東神田、麹町、品川、千住、内藤新宿などの幟(のぼり)や提灯もみられ、江戸と周辺の信者が多数参集している様子がみられます。信者の中には当時の歌舞伎役者の名もみられ、圓福寺が江戸の人々に熱心に信仰されていたことと、特にこの開帳がたいへんな評判であったことがうかがわれます。境内にはゆかりのある清正公の山車も入り、数々の出し物も演じられ、江戸庶民の信仰の熱意が伝わってきます。

妙德山圓福寺由緒
当山は文禄五年(1596年)九月三日加藤清正公により創建され、「妙法蓮華経」の功徳により福徳円満の御利益を授かるという意味が、山号寺号の由来です。江戸時代の初期より祀られている祖師像は日蓮聖人が四十九歳の時に彫られた御像で、聖人自ら開眼(魂入れ)なされ、その直後に龍ノ口法難(たつのくちほうなん)(1271年)を免れたことから、生御影(生きるお姿) 厄除開運の祖師と称され、古来より多くの参詣者を集めてきました。
また、江戸時代末期に徳川家の祈願寺となり、大奥女中の熱心な信者も多く、明治維新には、江戸城紅葉山より夜光鬼子母神七面大明神妙見大菩薩が当山に奉安されました。





◆大信寺






◆袖摺坂

坂上
以前来たことがある。
2018/09/18 神楽坂散歩 04 五味坂/常念寺/南蔵院/繁栄稲荷/法正寺/袖摺坂/長源寺 - ovanの社会科見学



坂下。



俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(『御府内備孝』)。

以前来た時と説明版が変わっている。
内容は一緒だが建っている場所が違うね。





◆繁榮稲荷神社



創立 明治二十三年十月二十五日
所立 東京市牛込區岩戸町十四番地
崇敬 創立と同時に無格社に列格宍戸ま津の崇敬殊に厚く併せて明治二十三年十月二十五日 当時東京深川六間堀所立の分霊を勧請し奉斉す。

昭和二十年五月二十五日
戦災により社殿焼失し、仮社殿に奉斉す。

昭和二十八年十二月三日
宗教法人として認知さる。

昭和三十四年六月七日
官弊大社伏見稲荷大社の御分霊を更に勧請し仮社殿が東京都新宿区岩戸町八番地に設立さるに際し仮還宮す。

昭和四十一年三月二十四日
東京都新宿区岩戸町八番地に岩戸町々会設立の新築社殿に奉斉す。






続く。
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