2023/11/07 国立公文書館・浦安散歩 05 /常灯明跡/べか舟河童/金魚池跡/境川東水門/浦安市文化会館・浦安市役所浦安市郷土博物館

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/11/07/163000





◆常灯明跡



 漁師は夜間海で働くときは、星をたよりに方向を定めますが、闇夜や天候の悪いときは目印がないので、遭難する人もいました。
 明治十三年(1880)十月三日、六人船(ろくにんぶね)で操業中の十六人の漁師が、暴風雨に遭い死亡するという事故が起きました。東学寺第十五代住職の法印律師高橋義応(ほういんりっしたかはしぎおう)は、遭難者の死を悼み、その霊を弔うとともに海難事故を防ぐため、自費で堀江の江川付近に柱をたて、頂上に木箱に入れた石油ランプを掲げ、漁場で働く人の目印としました。 それが、「常灯明」です。それ以来、住職は夕方になるとランプにあかりをつけ、明け方に消すことを日課とするようになりました。その後、常灯明は、周囲に人家が建てられ、海上から見えにくくなったので、明治二十五、六年頃漁業組合では、ここに高さ十七尺 (約5.1m)の鉄骨造りの常灯明を建設しました。
 この常灯明は、漁村にふさわしい情緒あふれる形をしていて、漁場で働く人々のよき道標として長い間親しまれてきましたが、昭和三十年代に入ると、漁業不振になりその必要性が薄れ、腐朽も進んだので、取り壊されました。





◆べか舟河童



 私たちが子どもの頃は みなこの境川で泳いでいました まるで河童 のようでした とてもきれいな川でした 川岸にたくさんあったべか舟にも乗って遊びました この母なる川境川を河童の住めるようなきれいな川にしたい
 私たちの心からの願いです
 みんなで境川をきれいにしましょう
 常灯明のあったこのところは 埋め立て前の境川の東の端でこの先には遠浅の海が広がっていました
現在の境川はかっての今川澪を中心に高洲地先まで伸びています 境川は永遠です



 私たちの「名前」が決まりました
男の子(魚を持っている可意はかも君です
女の子(手をたたき喜ぶ河童)はきょうちゃんです
境川を河童の住めるようなきれいな川にする事は環境問題の一つです
応募してくれた学区内の浦安市立東小学校児童二七六名の中で、環境(かんきょう)を取り上げてそれぞれに名前を考えてくれた
六年二組宮下月さんの提案を入選とし決定しました
これからはかん君、きょうちゃんをみんなの友だちとして可愛がってください
そして 境側を始め綺麗で親しみやすい水辺の環境づくりのため未来に向かって共に考え行動していきましょう





◆金魚池跡



 このあたりは、かつて地域の人々から「秋山(あきやま)の金魚池」と呼ばれていた金魚 の養殖場があったところです。39600㎡(12000坪)にも及ぶ大変大きな池でした。
 この池は、はじめは鰻や鯉の養殖場として使われていました。大正十一年(1922)、東京市砂町(現在の江東区)で金魚の養殖業を営んでいた秋山吉五郎(あきやまきちごろう) が買取り、ここで金魚の養殖を始めました。毎年、数十万匹もの金魚がここから全国へと出荷され、「関東一の金魚の養殖場」といわれていました。
 秋山は、金魚の新種開発に大変貢献した人物として知られています。明治の中頃まで、金魚は、和金・琉金・蘭鋳(らんちゅう)・和蘭獅子頭(おらんだししがしら)・出目金という五種類しか存在していませんでしたが、秋山の精力的な研究により、「秋錦(あきにしき)」「朱文金(しゅぶんきん)」「キャリコ」「金襴子(きんらんし)」などの新しい金魚が誕生しました。なかでも「秋錦」は、背びれのない丸い体と長い尾をもつ姿が、「水清き秋の池に紅葉をちらしたような美しさ」であるところからこのように名づけられ、たいへん評判を呼びました。
 しかし、昭和四十年(1965)から始まった界面埋立事業で、周辺の都市化が進み、昭和五十八年(1983)には、この池も埋立てられました。
 現在は、市の公共施設が建ち並んでいます。


すぐ隣にあった観光案内版

1 浦安市郷土博物館
浦安市郷土博物館は、「みんなが生き生きする博物館」を基本理念に平成13年(2001) 4月に開館しました。
様々な体験と展示を通して「漁師町の頃の浦安」を理解していただくことを目的とした施設です。

2 左右天命弁財天
明治17年(1884)に建立された。この弁天様は猫の弁天様といい、左右天命をお祀りしてある。
堂字の中には、行徳の後藤仏具師の作による弁財天が本尊として祀られている。

3 豊受神社
保2年(1157)の創建といわれる浦安最古の神社である。 境内には、大銀杏や富士塚のほか、「三峰神社」「金比羅大権現」 「秋葉大権現」「津島神社」「風神」の祠が並んでいる。

4花蔵院
天正5年(1577) に花蔵院中興の開祖賢融(けんゆう)和尚によって再興された。境内には、公訴貝猟願成(こうそかいりょうがんじょう)の塔のほか、や出羽三山供養培、万霊(まんれい)塔、宝篋印塔などがある。

5 東学寺
永禄年間(1558~69) に常誉(じょうよ)上人が開幕した。
本堂には、 秘蔵の亀乗(かめのり)薬師如来(未公開)が祀られているほか、境内には、浦安大師や稲荷堂、弘法大師供養塔などがある。

6正福寺
文禄2年(1593) に十乗院日詠律師(にちえいりっし)が創設した。 本堂には、大本山中山法華経寺から寄贈された日蓮大菩薩尊像、境内には、浄行(じょうぎょう)菩薩、 しなび地蔵、 弁財天が祀られ
ている。

7 宝城院
建久(けんきゅう)7年(1196)、醍醐山願行(がんぎょう)上人が開基した。 県指定文化財庚申塔や市指定文化財の大般若(経文)などがある。

8 大蓮寺
天文13年(1544)、覚誉存栄(かくよそんえい)大和尚が相模国小田原にあった大蓮寺をこの地に移し、堂を建てた。境内には大塚亮平(りょうへい)顕彰碑、宇田川六郎兵衛墓、久助稲荷、水子地蔵、鐘楼などがある。

9 清瀧神社
建久7年(1196)に創建され、境内には清神社本殿や富士塚のほか、八坂神社、龍神社、道祖神社、堀江水準標石 (平成19年度選奨土木遺産)などがある。

10 善福寺
明暦2年(1656) 祐栄によって開かれた。 明治時代には、当時の住 信が教師となり、本堂を教室として当代島小学校を開校していた。 境内には、宝篋印塔や田中十兵衛墓のほか、かるめや不動尊、サバ大師、六地蔵が祀られている。

11 稲荷神社
市内の神社では、唯一のお稲荷さんとして、昔から天然(ほうそう)に霊験があるともいわれ、永年間(1848~53)には境内の小石を持って帰るものが、後を絶たなかった。
境内には富士塚(浅間神社)や大鯨の碑などがある。

12 リンド技師記念碑
日蘭交流400年にあたる2009年 (平成21年) 10月、オランダ政府は、近代測量の基礎を成したリンド技師の功績を称え、旧江戸川近くに記念碑を建立しました。

13 清瀧弁財天
明治44年(1911) に一匹の白蛇が現れて「その白は弁天のお使いである」とのお告げがあったことから、記堂を建てて弁財天を祀ったなどの言い伝えがある。古くは生身形弁財天と称されていた。

A 旧宇田川家住宅
旧宇田川家住宅は、残された棟札から明治2年(1869) に宇田川吉蔵が建てた家で、年代がわかるものとしては市内最古の建物です。

B 旧大塚家住宅 (指定有形文化財
旧大塚家住宅は、建築構造とその特徴などから、 江戸時代末期に建てられたと推定されます。





境川東水門






浦安市文化会館・浦安市役所

手前の建物が浦安市文化会館。
奥の高い建物が浦安市役所。


市役所


浦安市文化会館


「シオン」像

舟越保武 作

『舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)は、日本の彫刻家。佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。東京藝術大学名誉教授。文化学院出身。直彫りによる石彫の第一人者とされる。
画家の妻道子との間に子供6人。次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍。娘の末盛千枝子(末盛憲彦の妻)は、児童文学編集者で「すえもりブックス」経営者。 』
舟越保武 - Wikipedia





浦安市郷土博物館


「慈愛」像

富永直樹 作

『富永 直樹(とみなが なおき、本名 富永 良雄、1913年(大正2年)5月18日 - 2006年(平成18年)4月11日)は、日本の彫刻家、三洋電機の工業デザイナー。長崎県長崎市生まれ。叙従三位。 』
富永直樹 - Wikipedia





続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/11/07/180000