前の日記からの続き。
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◆旧浦安町役場跡碑
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2023/11/07 旧浦安町役場跡碑 - ovanの社会科見学
◆清瀧神社
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2023/11/07 清瀧神社 - ovanの社会科見学
◆久助稲荷神社
『『境内には、「久助稲荷」と呼ばれる神社がある。学誉冏鑑が増上寺法主だった頃、夢の中に当寺の使用人だった久助が現れ、「大蓮寺の稲荷が荒れているので直してほしい」と頼みごとをした。学誉冏鑑は了承して、当寺に問い合わせたところ、久助はかなり以前に亡くなっていたことが判明した。この久助の志を汲み、修築費用を出して、この稲荷を「久助稲荷」と呼ぶようになった。 』』
大蓮寺 (浦安市) - Wikipedia
久助稲荷は、相模国小田原の大蓮寺(だいれんじ)境内に祀られている福徳稲荷の分身として、天文十三年(1544)、堀江村の大蓮寺創建と同時に建られたものといわれています。
大蓮寺第五代住職頓誉上人には、学誉(がくよ)という弟子がいました。仏門において一心に勉学に励んだ学誉は、後に、芝増上寺の第三十九代法主(ほっす)を務める大僧正になりました。
ある日のこと、学誉上人の住まいの庭先に、 大蓮寺にいたころ仕えていた使用人の久助が立っていました。 久助は、大蓮寺の稲荷様が荒れ果ててしまったので復興したいと、学誉上人に頼みにきたのでした。学誉上人は、大蓮寺にいた若いころ、稲荷様に祈願したことを思い出し、久助に改築を約束しました。 学誉上人は、早速京都伏見稲荷へ使者を出し、正一位の神位を受けると、久助との約束を果たすという手紙を添えて、稲荷神社の建設費用を大蓮寺に送りました。
ところが、久助は二十数年前に亡くなっていたのでした。 学誉上人は、稲荷様の身代わりになって現れた久助の志に深く感動し、享保十三年(1728)、「久助稲荷」と名前を改め社殿を新築しました。
毎年五月中旬には、お稲荷様のお祭りが行われています。
◆大蓮寺
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◆宝城院
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旧宇田川家住宅は、残された棟札から明治二年(1869)に宇田川吉蔵が建てた家で、現存する民家で建築年代がはっきりわかるものとしは、市内最古のものです。本家の宇田川家は、扇谷(おうぎがやつ)上杉家を継いだ上杉定正(さだまさ)の末孫と伝えられる家で、姓の宇田川は定正愛用の名刀「宇田丸(うだまる)」にちなんで名付けられたといわれています。
宇田川家は江戸時代に名主の家から分家し、屋号を「藤村屋」といいました。 米屋、油屋、雑貨屋、呉服屋と商家として使われてきましたが、大正三年(1914)、店の一部を改造し、浦安郵便局を開局しました。その後、昭和二十一年(1946)には宇田川喜作が診療所を開き、四十八年(1973)まで医院として使われてきました。
この家は、道路に面した店舗部分と奥の住居部分から成っています。階正面の揚戸、かぎの手の土間、二階軒の桁など、幕末から明治に至る江戸付近の町屋の形をよく伝えており、商家遺構の少ない関東では、非常に貴重な建物です。
旧宇田川家住宅は、昭和五十八年(1983)、喜作氏より寄贈され、翌年七月一日より一般公開されています。