2023/11/20 浦安散歩 02 境川東水門/浦安市役所/猫実一丁目子供遊園・熊野神社/※※※調べる※※※/水神宮/おっぱらみ/新中橋

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/11/20/220000




境川東水門





浦安市役所





◆猫実一丁目子供遊園・熊野神社


熊野神社の登録があったんだが・・・・
今は登録自体が亡くなってるね。
無視してよさそう だね。





◆江川橋

下は境川







◆水神宮






◆おっぱらみ



おっぱらみ
ここ境橋附近は、境川のなかで最も川幅が狭いところで、かつては「おっぱらみ」と呼ばれていました。
「おっぱらみ」という地名が生まれたのは江戸時代で、隣の行徳地域が徳川幕府に保護された塩の生産地だったころのことです。
塩づくりは、五月から九月にかけて行われます。しかし、入梅(にゅうばい)時期で雨量が多くなると、江戸川が増水し、淡水が境川を経て海に流れ込むため、行徳地先の海水は塩分が薄くなり、よい塩ができなくなりました。そこで、行徳で塩をつくる人たちは、毎年梅雨どきには、川幅が最も狭いこのあたりを土砂や板を使ってふさいでしまうことを恒例としていました。
 しかし、堀江・猫実の漁師たちは、海への玄関口である境川が通れなくなってしまうので、漁にでることができず大変困っていました。ある年、漁師たちは相談して、このあたりの土砂や板を強引に取り去ってしまいました。これを知った行徳の人たちが大勢押しかけて、再びふさいでしまおうとしたのですが、浦安の漁師たちは、団結してこれを追い払いました。それ以来、行徳の人たちもあきらめたのか、ここがふさがれることはなくなったといわれています。
 この「追い払い」が「おっぱらみ」とかわり、このあたりをあらわす地名になったということです。



境川
境川は、江戸川の支流で、本市の中央を西から東へ流れ、東京湾に注いでいます。
かつての境川は、長さ一・七話ほどの小さな川でしたが、昭和四十年(1965)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約4.8kmになりました。
 江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家を建て、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。
 川の水は、昭和二十年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったといいます。 人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきました。
 また、漁業を生業(せいぎょう)としていた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果たしていました。 かつては、二千艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られました。
 しかし、昭和四十六年(1971)に漁業権が全面放棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していきました。こうして、境川の風景も次第に漁師町の面影を失っていきました。






◆新中橋

下は境川





続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/11/20/230000