2023/12/23 茗荷谷・後楽園散歩 05 魚春跡/小石川寺町散歩/石川富山明倫学館/処静院跡の案内板/傳通院/福聚院

前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/23/183000






◆魚春跡

やまとなでしこ」というドラマの撮影地らしい。
現在は閉店している模様。
参考
やまとなでしこ 魚春 ロケ地・現在は跡地として建物が残る - ロケ地図.com







◆小石川寺町散歩







◆石川富山明倫学館

石川県出身の男子学生(昼間4年制大学に通学する者)を対象にした学生寮とのこと。
参考
石川富山明倫学館 | 石川県



石碑

碑文が読めなかった・・・。






◆処静院跡の案内板



浪士隊結成の地 処静院(しょじょういん)跡
 浄土宗処静院は伝通院の塔頭の一つであったが、 明治に入り、 現在の淑徳学園あたりに移り、その後廃寺となった。 今は伝通院門前に「不許華酒入門内(くんしゅもんないにはいるをゆるさず)」の文字が刻まれた、 処静院の石柱を残すのみである。
 文久3年(1863) 2月4日、浪士隊の結成が、 ここ処静院で行われた。 浪士隊は幕末、京都守護職 (会津藩松平容保(まつだいらかたもり))のもとで活動した新撰組の前身である。 隊結成にあたり、 中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭(うどのながとし) (鳩翁(きゅうおう)) が目付、山岡鉄太郎(鉄舟) が取締の職に就いた。
 鉄舟と懇意であった処静院の住職琳瑞(りんずい)は結成の趣旨に賛同し、竹早高等学校結成の場所として本院を提供した。 後に新撰組幹部となる試衛館道場の近藤勇土方歳三沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上った。 しかし、 尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の橋で刺客の手で斃(たお)された。 享年34歳であった。 現在墓は伝通院にある。 また、住職琳瑞も慶応3年 (1867) 小石川三百坂で刺殺された。 享年38歳であった。






◆傳通院

別のページで。
2023/12/23 傳通院 - ovanの社会科見学






◆福聚院



木造 大黒天坐像一軀 (文京区指定文化財)
 像高(右足下より) 47.2cm、ヒノキ材、漆箔、 彩色。 小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれて、 見るべきものがある木造彫刻といえる。
 特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、 その製作年代を鎌倉時代に遡ると考えられることなどを含め貴重な文化財である。
 大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命(おおくにぬしのみこと)伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。
 江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、 七福神の仲間に数えられるようになった。
 しかし、 本来は仏法護持の戦闘神として憤怒(ふんぬ)形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。






続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2023/12/23/193000