2024/02/09 新御茶ノ水・秋葉原散歩 02 講武稲荷神社/昌平橋/神田田代町/神田青果市場跡・石垣と武家屋敷/JR秋葉原駅

前のページからの続き。
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◆講武稲荷神社

『1857年(安政4年)に創建された。当地は防災目的の火除地であったが、何もない空地だったことから、次第に防災機能を損なわない程度の娯楽利用が認められるようになった。講武所設置の際に、その付属地とされ、付属地の利用料を徴収することで講武所の運営資金とした。
その後、大貫伝兵衛が講武所付属地の払い下げを出願した。大貫伝兵衛は、浅草の長昌寺にあった稲荷社に払い下げ成就の祈願をし、無事成就したので、感謝の意を込めて当地に稲荷神社を創建することになった。これが当社の起源である。
当地が火除地だったことから「火伏せの神」として、また幕末以降花街として発展したことから「水商売の神」として尊崇されるようになった。 』
講武稲荷神社 - Wikipedia



 当社は旅籠町3丁目にあり、安政4年の鎮座にして神体は宇之御魂命なり。一説に運慶作なりと伝ふ。昔時大貫伝兵衛なるもの当講武所付属地の払下を出願し其の許可を得んが為め浅草橋場なる長昌寺に安置せる此稲荷神社に参詣し、祈念怠ざりしかば遂に安政3年5月22日を以って払下げ免許となりたる由。これが為翌年社祠を造営し其の本体を橋場より本社に移したるを以って創始としている。尚毎年5月22日を大祭日としている。
 尚段の社域は大正12年の震災の際焼失せるも其後区画整理により現在地に安置せられたり。一般に火伏せの神なりと其の霊の灼さを伝へられ更に此の火伏護神と共に花街の繁盛に貢献顕著だと伝ふので近隣の三業関係人は勿論遠く向島辺から参詣人が多く時ならぬ賑かさも有りと申されて居る。
 戦災で復興・昭和五十五年改装・このたび銅板にて由来板を新装しました。






昌平橋

下は神田川





 昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、 1624~44年(寛永年間)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社) があり、一口橋とも呼ばれました。 他にも、相生橋という呼称もありました。 その後、 1691年(元禄4年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。
 少し下流にあった筋違門(すじかいもん)とともに、中山道 日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「入っ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。



旧町名由来版 神田旅籠町
 この周辺は、かつて神田旅籠町(かんだはたごちょう)と呼ばれていました。
昌平橋(しょうへいばし)の北側にあたるこの地は、中山道(なかせんどう)の第一の宿場である板橋宿(いたばししゅく)、日光御成街道(にっこうおなりかいどう)の宿場町である川口宿(かわぐちしゅく)への街道筋として、旅籠(はたご)が数多く立ち並んでいたため、「旅籠町」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 江戸幕府は、五街道(ごかいどう)のなかでも、遠く京都に通じる東海道(とうかいどう)と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝(にっこうさんぱい)の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうした二つの重要な街道の拠点となる町が旅籠町だったのです。
しかし、天和(てんな)二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)でも有名な「八百屋(やおや)お七(しち)」の大火です。もともとあった旅籠町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸(かがかなざわはんてい)跡地に替地(かえち)を与えられました。そして元禄(げんろく)七年(1694年)には、浅草御門の普請(ふしん)のため、馬喰町(ばくろちょう)・柳原(やないはら)周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅籠町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋(すじかいばし)の北側にあった幕府講武所付町屋敷(ばくふこうぶしょづきまちやしき)が神田旅籠町三丁目と改称されました。
 さて、旅籠町の由来となった旅籠ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。「諸問屋名前帳(しょどんやなまえちょう)」によれば、嘉永(かえい)(1848年〜1854年)のころまで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。


近くにあった地図





千代田区町名由来板 神田田代町



 この界隈は、 外神田四丁目になる前は、 神田田代(たしろ)町と呼ばれていました。
 寛政五年(1793)、 湯島の無縁坂から出火した大火で神田川周辺にあった町が類焼し、 町の一部が火除地となりました。 翌年、 そこに住んでいた人々が、 御成道の旗本永井伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきました。 そのため、 この一帯は神田須田町二丁目代地 小柳町三丁目代地、神田松下町一丁目代地、 神田花房町代地などと呼ばれる町になりました。明治五年(1872)、 このあたりが俗に「神田代地」 とも称されていたことから、それを略して「田代町」と名付けられました。 千代田区に属した昭和二十二年(1947) からは神田田代町と改称され、 同三十九年(1964)に住居表示が実施された際、 周辺の町の一部と合併して、 現在の町名 「外神田四丁目」になりました。
 町内の路地裏には 「花房稲荷神社」 があります。 現在の社は戦後、 地元住民が再建したものですが、 神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。






神田青果市場跡・石垣と武家屋敷



秋葉原UDXは長く大名・旗本の屋敷が続いた場所でした。図は明暦3 (1657) 年頃の絵図です。 神田川に架かる筋違橋 (現在の万世橋)や、 そこから延びる御成小路 (現在の中央通) 西には神田明神も描かれています。
秋葉原UDX敷地内に再現された石垣は江戸時代中頃の大名屋敷に用いられていました。
発掘された石垣の一部は、 秋葉原UDXの築堤石垣と駅前広場側モニュメントとして再利用されています。



神田青果市場跡地
 昭和三年(1928年)から平成元年(1989年)の六十一年の間、ここに日本一の青果市場がありました。
現在、市場は大田区東海に移転し、大田市場と名を変えています。
神田青果市場の前身は慶長十七年(1612年)に徳川幕府によって神田多町に設けられ、その後この地に移転しました。
江戸時代から続いている神田祭では、現在も市場関係者により市場の千貫神輿が担がれ、昔の心意気を今に伝えています。






◆JR秋葉原駅





何度も来ている場所だ。
少しずつだけど、やっぱりどんどん変わっていってるね・・・・。