2024/03/09 我孫子散歩 02 慰霊塔/我孫子駅南口東公園/大光寺/従是子神道碑/我孫子宿本陣跡/我孫子市デザインマンホール

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/200000







◆慰霊塔

慰霊塔の横には小祠があった。










我孫子駅南口東公園


山一林組(石橋製絲) 我孫子製糸所跡

 明治時代以降、殖産興業 富国強兵政策を進める日本にとって、生糸は外貨を稼ぐ重要な輸出品でした。千葉県は農業の近代化を図ろうと養蚕業を奨励し、繭の生産が拡大しました。明治二九(1896)年に常磐線、明治三四(1901)年には成田線が開通し、我孫子は近隣の物資主産地になり、貿易港である横浜と結ばれました。そこに目をつけた長野県岡谷市に本社を置く日本有数の製糸会社 山一林組は明治三九(1906)年、我孫子駅南東に繭から生糸を作る 「我孫子製糸所」を設けました。工場には蚕の繭を収める倉庫、蚕の繭をゆでる釜が二〇〇基(昭和初期には三六〇基)、糸を作る操糸工場などが設けられ、働く女子工員の数も三〇〇人を超えました。我孫子に住んだ小説家 志賀直哉は小説『流行感冒』の中で、製糸工場の女子工員がインフルエンザで亡くなった、と記しています。我孫子製糸所は旧東葛飾郡唯一の器械製糸工場で、昭和六(1931)年には千葉県下の生糸生産高の実に七割を占めるに至りました。 昭和一三 (1938)年、世界恐慌の余波の中、山一林組の経営は石橋商店(のち石橋製絲と改称)に移り、戦後は化学繊維の普及から生糸生産は縮小していきますが、我孫子製糸所は昭和六〇(1985)年まで生産を行っていました。当時を偲ばせるものとしては「蚕霊塔」を残すのみですが、もとの敷地の一部である公園の車止めは蚕の繭をイメージしたものです。









◆大光寺

別のページで。
2024/03/09 大光寺 - ovanの社会科見学









◆従是子神道



水戸道中と我孫子宿の町並み
 江戸幕府は今から約四〇〇年前の江戸時代初めから、江戸を中心とした陸上・水上交通網を整備しました。 江戸と水戸とを結ぶ「水戸道中」は水戸徳川家やみとどうちゅう常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、東海道などの「五街道」に次いで重視されました。水戸道中は奥州道中千住宿から分岐し、新宿(葛飾区)~松戸宿~小金宿~我孫子宿を結び、江戸初期は布佐から竜ヶ崎経由で水戸を目指していましたが、天和二 (1682)年には第一小学校入口交差点を北に進み、取手宿を経由するルートに変更されたことが資料から判明しています。
 江戸中期の宝暦八 (1758) 年に書かれた『土浦水戸道中絵図』の我孫子宿(吾孫子と表記)では、カギの手状に曲がった道に沿って七〇軒ほど家並みが続き、幕府や大名等の公用旅行者の宿泊所である「本陣」(小熊郷右衛門宅)が白い蔵を伴って建っている様子が描写されています(本陣は現在地の北約五〇メートル)。また、現在地付近には伝馬(馬人足)と公用文書の輸送(継飛脚)を管轄する役所である「問屋場」が置かれていました。 本陣、問屋場ともどのような建物が建っていたのか不明ですが、 ここから約一キロ東にある旧村川別荘の母屋は、本陣の離れを大正一〇(1921)年に解体移築したものと伝えられ、当地角に立つ寛政元(1789)年の「子ノ神(ねのかみ)道標」と合せて、江戸時代の我孫子宿を偲ぶ数少ない資料となっています。


村越材木店

お向かいに変わった建物のお店?があった。
ちばの木認証センター 合法木材NAVI -(一社)全国木材組合連合会(違法伐採対策・合法木材普及推進委員会)-









我孫子宿本陣跡



この付近には江戸時代の参勤交代などのときに大名などの宿泊・休憩場所として使われた「本陣」がありました。










我孫子市デザインマンホール










続く。
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