2024/03/09 我孫子散歩 03 旧我孫子宿名主邸・小熊邸/我孫子宿、水戸道、成田道追分/金八稲荷神社/子之神 大黒天「山門(開山一千年紀念)」/旧村川別荘

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/200000_1






◆旧我孫子宿名主邸・小熊邸

敷地内は非公開とのこと。
参考
https://www.city.abiko.chiba.jp/event/kanko/kankojoho/abiko_guidemap.files/guidemap_course2.pdf









我孫子宿、水戸道、成田道追分



我孫子宿 水戸道・成田道追分
 江戸時代より前、現在、成田街道と呼ばれている道を「水戸道」と呼んでいました。当時の「水戸道」は、東我孫子 湖北、 布佐、利根川を渡って布川へと進み、水戸へと向かう道でした。
 江戸時代になると幕府は、交通が各地方への幕府支配力を高める重要なものと考え、江戸を中心とした陸上・水上交通網の整備に力を入れました。江戸と水戸とを結ぶ水戸道は、 水戸徳川家常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、 東海道などの「五街道」に次いで重要な 「脇往還(わきおうかん)」として発達しました。
 その後、天和二(1682)年ごろになると、陸路・水路の整備が進み、大きく迂回した水戸への道は変更となり、この追分から北上する新たな「水戸道」が生まれました。そして、かつて「水戸道」と呼ばれていた道は、「成田道」と呼ばれるようになり、結果として成田道の起点となりました。 新しくできた「水戸道」は北へと向かい、柴崎神社付近をとおり、青山の渡しを使って対岸へと渡り、取手宿へと進みます。
 追分は我孫子宿の出入口として、地元の人々によって保存され、令和三(2021)年には地元の声が集まり、再整備されました。この整備によって、現存するなかで最古の元禄四 (1691)年の道標を再調査したところ、「水戸海道」「布川海道」と書いてあり、道の変更から約九年後の時点では「成田道」は、「布川海道」と呼ばれていたことがわかりました。また、道標には我孫子宿の人々と思われる寄進者の名前が並んでおり、古くからこの地が人々にとって大切な場所であったことがわかります。


いろんな角度から撮ってみた









◆金八稲荷神社










◆子之神 大黒天 山門 (開山一千年紀念)








◆旧村川別荘

別のページで。
2024/03/09 旧村川別荘 - ovanの社会科見学








続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/213000