2024/03/03 新宿西口イベント広場 「映画・ドラマの都 東京+関東 ロケツーリズムフェスティバル」


散歩の帰りに新宿西口イベント広場に寄った。



お目当てはコチラ













青梅と、映画看板と、板観さん。
最後の映画看板師と、まちの記録。
 青梅駅に着いてホームに降り立つと 木製の待合室にかかる昭和の映画看板たちが出迎えてくれる。改札を出ると商店の屋根や壁面、バス停や公園のフェンスにまで昭和の映画看板は掲げられている。 時間が止まっているようにも見えるし着々と歴史が刻まれているようにも見える。
 この街に今、映画館はない。正確には、なくなってしまった。織物業で栄え、花街を有するほどの繁華街だった昭和の青梅には、かつて3つの映画館があり、当時の最先端の娯楽として人々を楽しませた。そんな青梅の映画産業を支えていたのが「映画看板師」の存在。 手描きで描かれた一枚の看板に込められた迫力、繊細な情緒、妖艶さや不可思議さに人々は惹かれ、心躍らせ、映画看板師と、劇場へ足を運んだ。しかし月日は流れ、デジタルの進歩に伴い映画館もその役割を失っていく。手軽に、タダで、さまざまな最新の情報を映してくれるテレビの登場は人々にとって魅力がありすぎた。客足の遠のいた映画館が一つ、二つと姿を消した。 当然のように「映画看板師」という職業も行き場を失った。
 しかし、今もなお青梅の街には映画看板が掲げられている。旧き良き時代を彩り、一度はその歴史が閉じた青梅の映画看板。今もなおその風景を紡いだのは、ひとりの映画看板師だった。
本名を久保昇、青梅の人々は彼を愛称で「板観さん」と呼ぶ。

久保板観 (本名 久保昇)
昭和16年 青梅市本町生まれ。中学一年の頃から映画看板の絵の練習にのめり込む。 昭和32年、 中学卒業後年間 365枚以上の映画看板を描く生活を送る。 昭和48に映画館 「青梅大映」 で看板絵師の仕事をスタート、年、テレビ等の影響で映画産業が斜陽になり、 市内にあった3つの映画館が閉鎖すると映画看板の仕事がなくなり、商業看板業に転向した。 平成3年から地元商店街町おこしに助力。 平成6年からは青梅の商店街に昭和の映画看板が再び飾られるようになり、現在に至る。 平成30年脳梗塞により逝去。享年77歳。

映画看板は使い捨てだった
 昔はのりがなかったから上新粉を水で溶いたもので木枠に紙を貼っていたの。だから2週間くらいで腐っちゃう。 映画看板も1週間経てば破いて捨てる使い捨てだった。だから今のように長持ちする作品を描く材料をそろえるのはひと苦労だったけど、映画看板っていうものを作品として街の中にここまで長いこと飾らせてもらってこういう発表の場所を与えてもらって、俺は本当に運がよかったね。
 しかも青梅は古い街並みだから、映画看板がちゃんとぴったり合うんだよ。商店街の人たちが喜んでくれるのもうれしかった。映画看板師って職業そのも自体、もうこの世に生まれてこないかもしれないし、二度と、こんな風景をつくることもないと思う。最初は2、3年くらいかなと思って描いていたけど看板の街並みはこんなにも長く続いてくれて。だからもっともっと描かなきゃいけないんだろうなって思うんだけど、体力的にも疲れがきていてなかなかね。だけど、もう少しだけ、がんばりたいね。







場所はコチラ