表参道を北西に進み明治神宮前駅まで来た後は穏田商店会(商店街)を通って南へ進む。
◆広島浅野家下屋敷
現在は表参道ヒルズとなっている。
説明板などは見当たらなかった。
このみまちは、
ときをよんでる。
このまちは、
ひとをよんでる。
このまちは、
あいをよんでる。
このまちは、
ことばをよんでる。
このまちは、
詩 堺屋太一
って、あの堺屋太一さんか!
ビックリした。
河野カタ女史は漢方医薬の大家にて敬神の念厚く特に当穏田神社には日参数年その間戦災に依る境内の荒廃に心寄せられ拝殿、神楽殿、稲荷社、渡橋等ご奉納の篤志に対し氏子総代相はかり胸像を建立永遠に女史の志を彰するものである
此の烏居は、旧穩田三丁目七十九番地(現神宮前六丁目二十八番十二番、三十三番)に鎮座した熊野権現の参道に、今から約三白三十年
余り前に建立されました。
この柱 の基部の『延宝七年末四月二目』の刻石は、解体中偶然に見つかりました。(平成十年の解体時には見つからず)
社史には「第一烏居の基部に『延宝八年末四月二目 浅野但馬守 浅野將監』の刻みあり」と伝わっていまLたが、人名が刻まれて無かったのが残念であります。
烏居は、明治十八年、熊野権現を合祀の際、現在の第一烏居の場所に手水石(広島藩浅野家二代藩主松平安芸守光晟室自昌院の家紋梅鉢の刻んだ手水石)と共に移設されたものです。
震災・戦災を免れ、平成二十四年まて三百三十有余年5の間、大神様の御稜威と共に、宮居を守り氏子の発展を見守って参りました。
手水石と共に穏田神社の創建当時を偲ぶ物証とLて、後世に伝え残すものであります。
続く。