2017/07/20 関西の旅 3日目 02 新選組最後の洛中屋敷跡/木下順庵邸跡/祇園祭/本能寺跡/膏薬辻子/阪急大宮駅/大阪

バスツアー後、帰りのバスまで時間があったので、
京都の駅周辺と、烏丸、四条から阪急大宮まで散策。
烏丸=からすま
42年間生きてきて、「からすま」と読むことを初めて知りました(w




新選組最後の洛中屋敷

当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。しかし、豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。
 幕末期、新選組はこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)年6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。
 近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書簡によれば、同年6月15日に入居している。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。価値の低い記録による復元・叙述は、極力避けなければなりません。
 同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。翌年1月の鳥羽伏見の戦いの敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩む。当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
 が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。当地付近は、地域史上初めて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

歴史地理史学者 中村武生






◆木下順庵邸跡






木下順庵は京都生まれで、江戸時代前期の朱子学派の儒学者
天和2年、幕府に仕えることになり江戸に移住。
「木門十哲(もくもんじってつ)」と呼ばれる門下10人の育成にあたる。
新井白石・室鳩巣(むろきゅうそう)・雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)・祇園南海(ぎおんなんかい)・榊原篁洲(さかきばらこうしゅう)・南部南山・松浦霞沼・三宅観瀾(みやけかんらん)・服部寛斎・向井滄洲。




祇園祭

1か月に渡って行われる八坂神社のお祭り。
「後祭 山鉾建て」 と言われる行事を見ることができた。





全部で十基あるとのこと。
たぶん全部見られたはず・・・。



左甚五郎の鯉神像

一番最初に見た鯉山のところでは、左甚五郎の鯉神像をみることができた。



◆本能寺跡

あの有名な本能寺は元々ここにあったとのこと。
信長の遺体は見つかっていないので、
もしかしたらまだどっかにある?




◆膏薬辻子(こうやまのずし)

残念ながら車が・・・・
今度はこの道も散策してみたい。



膏薬辻子とは、四条通から中ほどで折れ曲がり綾小路通までを走るこの細い道の名称である。また、膏薬辻子を挟む地域が、明治2年(1869年)に新釜座町と命名されるまでは、地域の名称としても用いられた。
この地域は、皇后を何代も排出した大納言藤原公任(ふじわらのきんとう)の邸宅である四条宮のあった場所である。
そして、この地域において、踊念仏で知られ、後に西光寺(現在の六波羅蜜寺)を創建した空也上人が天慶元年(938年)、この地に道場を設けて念仏修行を始めた。

天慶3年(940)に、天慶の乱により戦死した平将門の首が京都の町で晒されて以後、全国で天変地異が相次ぎ、平将門の怨念の仕業とされたため、各地で平将門の霊を鎮めるために首塚が築かれた。京都でも、空也上人が、道場の一角に塚(現在の神田神宮)を建てて供養したことから、空也供養の道場と呼ばれた。そして、空也供養の発音が訛り、細い道を意味する辻子と合わせて、膏薬辻子と呼ばれるようになったとされている。



将門?
神田明神
やっぱり路地に入ってみればよかったなあ。



◆阪急大宮駅と周辺


錦生湯

かなり汗かいたので銭湯へ!


このキャラクターは一体・・・・(w


駅到着

ここから梅田へ戻りました。




◆大阪

東京へはバスで帰りました。
バス乗り場は北新地の駅のほうが近かった。
大阪駅から地下道で北新地までつながってるのにはびっくりした。
むしろ地上に出ると道路が渡れなかったりかなり遠回り。
で、地下に潜ると携帯の位置情報が正確に表示されず迷ってしまいそうになる・・・・。
手ごわいぞ大阪!!!!