2021/04/08 西尾久散歩 10 尾久八幡神社/女子医大通り/碩運寺/社/条里の遺跡の碑/史跡

都電荒川線の線路を渡って細い路地を南へ移動。



◆尾久八幡神社



八幡神社と八幡堀
 八幡神社の創建は不詳であるが、鎌倉時代末期の正和元年(1312)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札から、至徳二年(1385)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」には、上・下尾久、船方三村の鎮守と記されている。
 八幡堀は、王子・上中里・田端・日暮里と流れる用水が八幡神社を取り囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3-4周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑わい、神社の西側では下肥の積み下ろしも行っていたという。



八幡神社と上尾久村村絵図
 上尾久村村絵図(荒川 区指定文化財)は、神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子が窺える。図中には、農業用水の流路、七名の領主名と各領主付農民、村内の社寺などが記され、隣村の田端や中里との間で取り決められた用水に関する記述が三ヶ所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848)以後のものであると推定される。このほか 享保十四年(1729)銘の手水鉢(荒川区登録文化財)や南北朝期の至徳二年(1385)銘をはじめとする棟礼(荒川区指定文化財)等を所蔵。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から鎌倉時代末期には鎮守として勧請されていたと考えられる。


厳島神社



鳥居



神社前にあった案内板1

八幡堀プロムナード
 江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和六十年(1985)に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て、第40回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。
 荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。
 東京都も、この都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて、水路をイメージした歩道の整備を行いました。
 この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。


神社前にあった案内板2

この地図は江戸時代の「尾久村絵図」とい八幡神社に保存されている「荒川区有形支化財」を写したものです。
 
 荒川区立尾久官前小学校の四年生が社会科の学習をする中でこの地図の水路に目をつけました。 そして、尾久村は江戸時代に米づくりが盛んだったことや農業
用水を確保するために苦心したことなど先人の偉業があったことを知りました。
 消えてしまった八幡堀とその水路を、 再び町によみがえらせようと願った子どもたちの気持ちは、 保護者や地域の人々の心を動かし多くの人々の協力を得て、八幡堀プロムナードとしてその姿の一都を実現することがてきました。このことは東京都はもとより、日本各地に知れわたり地域の中で育つ子どともの理想の姿として、大きな評価を得ました。







女子医大通り

商店街♪
近くに東京女子医科大学がある。







◆碩運寺

碩運寺(せきうんじ)


寺の湯跡(碩運寺)
 大正二年、飛鳥山下と三の輪の間を結ぶ王子電車(現在の都電)が開通し、翌三年碩運寺に「寺の湯(後の不老閣)」が開業した。
 当時の住職が井戸を掘ったところ、ラジウムを含む鉱泉であることが判明し、寺内に温泉を開業したのである。この後、周辺に保生館・清遊館・大河亭・小泉園等の温泉旅館が次々にでき、商店街も形成された。
 大正初期の王子電車の開通と「寺の湯」の開業は、尾久がムラからマチへと変貌をとげるにあたって大きな役割を果たしたのである。



■八幡堀
 江戸時代の荒川区は、日光道中沿いの街並みや寺社・武家屋敷などを除けば大部分が田畑であり、この農地に水を供給していたのが石神井川用水でした。この用水は、王子用水とも呼ばれ、王子権現の下に石堰を築き、石神井川の水をせき止め、北区・荒川区域の農業用水としたもので、各村内には、この用水の水を引いた用水路がめぐっていました。その中で、八幡神社を囲むようにして隅田川に注いでいた流路が「八幡堀」と呼ばれました。

■すいろみち・さかみち景観整備事業
 かつて隅田川と共に私たちの生活に密着していた水路は、下町荒川の庶民文化や風土を育んできました。しかし、都市化の進展と共に水路は姿を消し、今ではまったく存在しない街となってしまいました。
 本事業は、この八幡堀の流路とほぼ一致した道路を対象に整備を行い、区民のふるさと意識を高め、魅力ある街づくりを進め
るものです。







◆社



google mapに載っていなかった。
場所は赤丸のところ。
何が祀られているのかもわからなかった。







◆条里の遺跡の碑



 「条里南道」と記されたこの碑は、明治二十年ころ、人文地理学者の小田内通敏が東京府史跡調査を行った際に、このあたりに残っていた条里制の遺構の保存を進言して建てられた。
 条里制とは、古代の耕地の区画制度であり、碁盤の目のような整然とした地割りが行われた。このように区画された耕地は、七世紀末ごろ制定されたという班田収授の法に基づき、農民にロ分田として分け与えられた。かつて荒川流域には多くの条里制の遺構があったが、現在では上・中流域にわずかにみられるのみである。






◆史跡





こちらもgoogle mapには載っていなかった。
場所は赤丸の所。
どういった類のものなのかもわからなくて・・・(汗








続く。