2017/12/03 志村坂上散歩 01 健康ウォーク2017/戸田橋の親柱/斎藤商店/志村一里塚

24時間勤務アケでワニガメさんと健康ウォーク2017に参加してきた。
僕は2回目。
去年の様子↓
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20161123/1480056402



去年は武蔵野市中心だったが、今回は板橋、北区だった。
毎年変えてるのかな?



開会式



スタート

みんなの写真を撮ってスタート♪
6キロコースと12キロコースがあったが、6キロコースを歩いた。



閉会式

疲れた(w
散歩の途中に見つけた史跡や、ゴールした後に気になって行ったところなどを日記に残す。




◆戸田橋の親柱




これは、荒川に架かっていた三代目戸田橋の東京都側にあった親柱(おやばしら)です。
江戸時代の中山道は、荒川を渡し船で渡っていました。橋が架けられたのは、明治8年
(1875)、長さ135m、幅4.11mの木製で、 はじめは通行料をとる有料橋でした。二代目は路面を土で固めた木製土橋で、大正元年(1912)の完成です。
大正12年関東大震災後、都市化する東京の北の玄関口として架けられたのが三代目戸田橋です。昭和7年(1931)に完成したこの橋は長さ545m、幅11mで、当時の橋梁技術の粋を集めた近代的なトラス橋の鉄橋でした。
昭和26年からは橋のたもとで納涼花火大会が開催されるようになり、同39年の東京オリンピックでは、聖火ランナーがこの橋を渡るなど、板橋区や東京都の発展を見守り続けた橋でした。
昭和53年、現在の四代目戸田橋が完成し、三代目は解体されましたが、「橋の顔」である親柱はこの地に保存されることとなりました。埼玉県側の親柱は、戸田市立親水公園に保存されています。 





◆斎藤商店




 欅を主に扱う原木商として明治二十二(1889)年に当地で創業し現在は竹材を主とし、箒や笈などの竹製品も商っています。現在の建物は、昭和八(1933)年の国道17号の拡幅工事に伴って新築されたものです。建物全体は、店舗部分と住居部分が一体となっており、下屋庇(しもやひさし)を廻したL型平面の入母屋造桟瓦葺(いりもやづくりさんかわらぶき)の平屋に二階部分を載せた複雑な構造となっています。築材には国産材を使っており、また宮大工が建てたとも伝わりますが、大工の名前などは不明です。
 建物の外観には、破風(はふ)を各所に見せる複雑な屋根の構成や、二階の窓の手すりに高欄風の反りを持たせるなどの意匠が見られます。さらに外壁には真壁漆喰塗りが施されています。
 斎藤商店は、郊外の独立住宅の趣を呈する区を代表する近代和風建築であり、近接する志村一里塚(大正十一年国指定)と一体化した街のランドマークとしても親しまれています。また、平成四年には「活き粋いたばしまちなみ景観賞」にも選ばれています。
 斎藤商店は、区の歴史や文化に関係が深く、また、意匠的、技術的にも優秀であることから、区の建築史を明らかにするうえで重要な建造物です。平成二十四年度に登録文化財となりました。




活き粋いたばしまちなみ景観賞




◆志村一里塚








 江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604)二月に諸国の街道に一里塚を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を起点として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の新編武蔵風土記稿」では「中山道の往還の左右にあり」と紹介されています。
 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(1876)に廃棄を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、死ぬらの一里塚の昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
 今日、現存する一里塚は全国的にも非常にまれなもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(1922)に国の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。





続く。