2019/10/10 喜多見散歩 06 喜多見氷川神社/念仏車/丸正浴場/二の橋商店街/慶岸寺/喜多見駅

このルートは少し史跡が少なく、だいぶ歩いた。
二の橋商店街の通りは交通量が多く道幅が狭い。
かなり慎重に歩いた。



◆喜多見氷川神社




 氷川神社の創建は古く、天平十二年(740)に素菱鳴尊(すさのおのみこと)を奉祀したことに始まると伝えられています。永禄十三年(1570)には、この地の領主江戸刑部頼忠(えどきょうぶよりただ)により再興されました。その子孫喜多見勝忠が神領五石二斗を寄進したほか、社前の二の鳥居は承応三年(1654))に喜喜多見重恒(しげつね)、重勝(しげかつ)兄弟によって建立寄進されるなど、江戸・喜多見氏とゆかりの深い神社です。
 また、慶安二年(1649)、徳川家光より十石二斗余りの朱印状を与えられ、以降、将軍家より八通の朱印を受けています。
 例祭十月第三日曜日。




喜多見氷川神社の節分祭行事と神前神楽
 節分祭行事は毎年立春の前日(二月三日)の節分祭に一陽来福を祈願して行われます。特に鬼問答と大国舞は都内でも稀な民俗行事で、古くより喜多見の地に伝わる独自な形式を持つ郷土芸能として、氏子により奉納され
ています。
 神前神楽は十月の例祭に舞われています。この神楽の中心は「神前舞」で、神事に舞われる神聖な舞として、古くから喜多見に伝わっていたと思われます。元は社家によって舞われていたようですが、明治初期以来、氏子によって伝承されてきました。
 いずれも明治時代以前より伝承されてきた喜多見地方を代表する伝統的民俗行事として、文化・芸能史上貴重なものとなっています。




鳥居




銘文
〔左柱正面〕
寄進石華表武蔵国多麻郡喜多見村氷河大明神当社依為余輩氏神両兄弟相議建之以表微志者也
〔左柱側面〕
承応三午甲年九月九日喜多見五郎左衛門平重恒
〔右柱正面〕
左柱正面銘交と同文
〔右柱側面〕
承応三午甲年九月九日喜多見久太夫重勝

年代
承応三年(1654)

法量
総高は中央部で二九二・五センチメートル
柱間は、基盤で一八〇・五センチメートル

材質
白雲母花崗岩、基盤は安山岩〔形式〕明神鳥居

伝来
承応三年、喜多見重恒・重勝兄弟が氏神である当社に奉建したものである。鳥居の特徴は、台石上部の根巻が太く、円柱の三分の三分の一位あることと、寄進の年記や寄進者等が明確に刻まれていることである。なお、銘文は杉庵石井兼時の書であると伝えられている。
この石鳥居は区内最古のもので、形式・石質ともに特異でありこの地方の文化史上貴重なものである。




楽殿





龍石



石塔



世田谷百景

喜多見氷川神社と祷善寺跡
一千年以上も前の創建と伝えられています。境内は保存樹林地となっており、なるなお暗いほどうっそうとし、野鳥も多いところです。ここに伝わる里神楽は区内の貴重な民俗芸能の一つとなっています。










◆念仏車




 旧岩戸村(現東京都狛江市岩戸)との境に近い、「いかだ通」と「中通」の交差した地点にある。
 念仏車とは念仏を唱えながら廻すものであり、一回廻す毎にお経を一巻読んだと同じ功徳があるとされ、念仏の功徳をより効率良く広めるものとして造立されたと考えられる。当地の念仏車には石造四角柱の上部に六角形の車輪が取り付けられており、各面に六字名号の各字が刻まれている。 
 銘文によるとこの念仏車は文政四年(1821)十一月、喜多見郷の「女念仏講中」によって建てられた。念仏講は女性のみによって構成される場合がままあり、このような念仏講による地蔵等の造立例が区内でも幾つか認められる。しかし区内で近世以前に造立された念仏車の遺例は他に見られないので、この念仏車は近世世田谷の女性による信仰の遺跡としてはかなり貴重な例といえる。
 またこの念仏車の傍らの小祠には、元禄五年(1692)の庚申塔、並びに享保四年(1719)の地蔵が安置されており、近世の喜多見村における民間信仰の面影を今に留めている。






お地蔵さまと庚申塔



◆丸正浴場

銭湯♪


◆二の橋商店街



◆慶岸寺






喜多見駅

ゴールの小田急喜多見駅
もちろん業務スーパーに立ち寄る(w
今回は人に話しかけられることが多く、ちょっと疲れた・・・。
のんびり散歩させて!!