2023/04/19 久我山墓地(光明寺跡)


調べてみると、住職が檀家の後家さんに手を付けて村人から暴行をうけて・・・・・。
寺は取り壊しになったとあった。
参考
https://member.sugi-chiiki.com/miyamae5-minami/wp-content/uploads/2021/07/%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-13-15.pdf






 小堂内には、奥壁向って左から寛文五年(一六六五) 銘庚申塔、宝永五年(一七〇八) 銘念仏供養塔、享保四年(一七一九) 銘地蔵菩薩、寛文十年(一六七〇) 銘日侍塔、入口近くの左右に三基ずつ並んだ享保八年(一七二三) 銘六地蔵菩薩の石塔十基が安置されています。
 これらの石塔は、銘文などから旧久我山村の各所にあったことがほぼ確認できます。
 寛文五年銘の庚申塔は、未だ青面金剛神ではなく地蔵菩薩を尊像とする比較的古い型の供養塔です。
 享保四年銘の地蔵菩薩には、茶燈料として土地を永代寄進したことが刻されており、当時の信仰の形態がうかがわれます。
 寛文十年銘の日侍塔は、聖観音菩薩を刻んでいます。日侍塔は、全国的にみても比較的少ない供養塔です。
 宝永五年銘の念仏供養塔と享保八年銘の六地蔵菩薩には、光明寺の住職と村人との騒動にまつわる供養塔であるとの伝えがありますが、定かではありません。 光明寺は、この墓地の南側にありました明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。
 この石塔群は、時代的・地域的にまとまっており、いずれも江戶時代中期の標準的な作風を残すものであり、また、当時の久我山地域の信仰形態や風俗を示すものとして貴重なものです。

杉並区教育委員会の看板だと上記の檀家の後家さんに手を付けて・・・というのは定かではないということだね。




◆山門







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