2020/08/03 港区芝散歩 03 埠頭公園(南極探検発祥の地/芝浦球場跡地)

こちらは情報量が多いので一ページにした。
全て埠頭公園内。


◆埠頭公園






◆南極探検発祥の地

碑文は判読不可能の個所が多く、文字化を断念。




 この記念碑は、明治四十五年、白瀬矗(のぶ)中尉ら二十七人による我が国最初の南極大陸探検の消去を記念して、昭和十一年に建てたものです。
 その後、長い年月を経てペンギン像のくちばしや、つばさが損傷するなど、痛みが激しくなったため、港区が文化財を保存する立場からその製作者である芸術院会員、彫刻家、故朝倉丈夫先生の関係者に依頼し復元しました。


南極探検について

 我が国で初めての南極探検は、明治四三年 (1910年)白瀬矗 (のぶ)隊長以下二十七名によるものです。
 まだ青く美L い海であったこの地芝浦を同年十一月二八日小帆船開南丸(204卜ン・野村直吉船長)にて出航し、七十日あまりの後二 ュージーランドのウェリントン港に入港しました。隊員の休息と燃料や水の補給をして明治四四年(1911年)二月十一日同港を南氷洋に向け出航し、悪天候と戦いながら三月一四日南緯七四度一六分に到達しました。この時 南極圈は氷結期に入っていたのでそれ以上の前進は不可能であり、五月一日オーストラリアのシドニー港に回航しました。南極の夏を待つため六ヶ月あまりここに滞在して船の修理や食糧・防寒着等を整え、十一月十九日同港を出航し、明治四十五年(1912年) 一月十六日南極大陸のホエール (鯨)湾に上陸しました。白瀬隊長以下五名は二台の犬ぞりで氷野を前進して苦難の末一月ニ十八日南緯八〇度五分、西経一五六度三七分の地点に到達し、日章旗を立て、ここを「大和雪原」と命名しました。又、留守隊は沿岸の前人未踏の地域を探検しました。一行は天文気象等学術上多くの成果をあげ、六月二十日全員元気に芝浦に帰港しました。
この偉業を後世に伝えるため、ニ十五周年の出発記念日にあたる昭和十一年 (1936年) 十一月二十八日にこの南極探検記念碑が建立されました。


砕氷艦初代しらせ」スクリュープロベラ



これは「砕氷艦初代しらせ」のスクリュープロベラです。
南極探検発祥の地を記念して海上自衛隊から港区へ貸与されました。



砕氷艦 初代しらせ」は1982年から2007年までの南極観測に使われました。
1つのスクリュープロペラは4枚羽根構造となっています。
「初代しらせ」 特徴
主要寸法 134m×28m×14,5m×9.1m
     (長さ×幅×深さ×喫水)
最大速力 19ノット
     (1ノット=1海里=1.352km/h)
主機型式 ディーゼル電気推進
軸馬力  30,000馬力
乗員   本艦 艦約170名 観測隊員約60名








◆芝浦球場跡地(~日本初のプロ野球チーム発祥の地~)



 大正10年3月(1921年)、「日本運動協会(通称:芝浦野球協会)」の本拠地として、この埠頭公園付近に「芝浦球場」が建設されました。
 「日本運動協会」は、選手が野球をすることで報酬を得る「職業野球」を日本で初めて試みたチームでした。
 当時の資料によると、広さは約6千坪(約20,000㎡)、バックネット裏と1、3塁側の内野の3箇所にそれぞれ2千人が入れる木造のスタンドがあり、他に外野の立見席を合わせると約2万人の観客を収容することができました。
 両翼は90m、センターは約120m前後あったと推測されます。
 右翼の塀の外側には、球場の附付属設備として6面のテニスコートとクラブハウス(兼、日本運動協会合宿所)が設置され、クラブハウス内には浴室、集会所、食堂などがありました。
 「日本運動協会」は結成から約 1年間試合を行わなかったため、当初は早稲田大学野球部のOBチームである稲門倶楽部と慶鷹義塾大学野球部のOBチームである三田倶楽部との試合が主に行われました。
 大正11年(1922年)からは、 「日本運動協会」の試合も多く行われるようになり、三田倶楽部対大リーグ選抜戦、「日本運動協会」対「天勝野球団」戦(日本国内で初のプロ球団同士の試合といわれる)などが行われてきました。
 大正12年(1923年)9月の関東大震災後、 芝浦球場は戒厳司令部によって救援物資の集積場として徴発されることとなったため、試合の続行が不可能となり、大正13年(1924年)、「日本運動協会」は解散。その後芝浦球場も閉鎖されました。







続く。