2020/08/25 三田散歩 05 長久寺/綱の手引坂/イタリア大使館/三田春日神社/厳流稲荷/水野監物邸跡/慶応仲通り商店街

長久寺からは桜田通りまで東へ進む。
桜田通りを少し南下し、慶応仲通り商店街を抜けて田町駅でゴール。



◆長久寺







◆綱の手引坂

坂上



みっけ♪



坂下。



平安時代の勇士源頼光の四天王の一人渡辺網(わたなべのつな)にまつわる名称である。姥坂(うばざか)とも呼んだが、馬場坂のの説もある。








イタリア大使館








◆三田春日神


赤羽稲荷神社



是の赤羽稲荷神社は江戸末期芝公園円山に祀られて有るを当時赤羽の地に二十七番札所として名高き円明院に勧請され商売繁昌諸祈願成就の御神徳にて大いに繁栄した 又此の時代は神仏混合で神社も寺院と共に護持され 明治となり神仏分離仰せ出だされ当時の別当赤羽の姓賜り神職として神社に尽して有れば社頭賑々しく立栄えしも昭和二十年五月の大空襲にて惜しくも全焼 御神霊は赤羽氏に守られて家内に安置奉り現在赤羽元氏子に受継がれしも此度赤羽氏よりの御申し出でにて当社境内に新に神殿建立御遷座奉斎申し上げる次第である



福徳稲荷神社



大鳥居台座?

碑文を見ると三田通りの拡張の際に出土した大鳥居の基礎を石臼に加工した・・・
ってことかな?









◆厳流稲荷

慶応仲通り商店街の中にいらっしゃった。








水野監物邸跡



 この地周辺は元禄赤穂事件で、吉良邸討ち入りに加わった赤穂浪士四十七人のうち、九人が預けられた岡崎藩水野家芝三田屋敷の一部です。水野家は後に天保の改革を主導する水野忠邦を輩出した譜代大名で、水野監物忠之は第四代藩主です。元禄十五(1702)年十二月十四日夜の吉良邸討ち入り後、赤穂浪士はこの水野邸のほか伊予松山藩松平家熊本藩細川家、長門長府藩毛利家に預けられました。十二月十五日、お預けが決まると、水野家の江戸詰藩士150余人と留守居小川九郎右衛門郎を請取人として仙石伯耆守邸に遣わし、間重治郎光興ら九人を預かり、この屋敷に収容しました。翌十六年(1702)年二月四日、九人はこの屋敷で自刃し、武士の本懐を遂げました。
 水野家は細川家とともに赤穂浪士の取扱が丁寧で評判もよく、「細川(越中守綱利)の水の(水野監物)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守綱元)の沖(松平隠岐守定直)ぞ濁れる」という落首がその状況を伝えています。








◆慶応仲通り商店街









スタートと同じ田町駅に戻ってゴール。
写真はスタートの時と同じのを使う。


やっぱり暑かった。
狭い範囲なのに貴重な建築物や史跡などがたくさんある。
慶応大の中に入れなかったのは残念だった。
新型コロナウィルス騒ぎが落ち着いたら行ってみよう。