三の輪湯まで北上した後は、南北へジグザグに移動しながら徐々に西へ向かう。
◆金剛寺
板倉内膳正重昌(いたくらないぜんのかみしげまさ)の墓所
この宝泉寺には、板倉内膳正重昌の墓所があります。高さ約3mの五輪塔の中央には剱峯源光大居士、その右に寛永十五戊寅歳(1638)、左に正月朔日(ついたち)と刻まれています。これは重昌が「島原の乱」で戦死した日にあたり、金石史料としても貴重なものです。明治四十一年、牛込横寺町(新宿区)から移転してきました。
重昌は、京都所司代(しょしだい)板倉重勝の第三子で、のち三河(愛知県)の深溝(ふかみぞ)城主となりました。若くして徳川家康の近習(きんじゅう)となり、方広寺の事件では使者として「国家安康」・「君臣豊楽」の鐘銘は家康批判であると豊臣方に強硬にせまり、これが発端となって豊臣氏の滅亡へと進んでいきました。
寛永十四年(1637)島原の乱が起ると、重昌は幕府の命を受けて九州諸大名を督励(とくれい)し、反徒の鎮定(ちんてい)につとめました。しかし、強い抵抗にあって果さず、幕府は再び老中松平信綱を派遣して指揮にあたらせることにしたため、責任を痛感した重昌は、翌年元旦「原城」を総攻撃し、自らも戦死をとげました。
菩提所
吉良上野介義央
『吉良 義央(きら よしひさ/よしなか(名前の読みについては後述を参照))は、江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通、鳥居正次、清水義久らと共に討たれた。同事件に題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良上野介と呼ばれる。 』
吉良義央 - Wikipedia
水野重郎左衛門
『水野 成之(みずの なりゆき)は、江戸時代前期の旗本。通称の十郎左衛門(じゅうろうざえもん)で知られ、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる。』
水野成之 - Wikipedia
※重→十 だが、同じ人物で合っているだろう。
『旗本奴(はたもとやっこ)は、江戸時代前期(17世紀)の江戸に存在した、旗本の青年武士やその奉公人、およびその集団、かぶき者である。派手な異装をして徒党を組み、無頼をはたらいた。代表的な旗本奴は、水野十郎左衛門(水野成之)。代表的な団体が6つあったことからそれらを「六方組」(ろっぽうぐみ)とよび、旗本奴を六方(ろっぽう)とも呼ぶ。同時期に起こった町人出身者のかぶき者・侠客を「町奴」と呼ぶ。 』
旗本奴 - Wikipedia
今川(一月)長得
『一月 長得(いちげつ ちょうとく)は、駿河今川氏出身の僧侶。今川家第9代当主・今川義元の三男であると伝えられる。生家の苗字を冠して今川長得と記されることもある。』
一月長得 - Wikipedia
歌川豊国
『初代 歌川豊国(しょだい うたがわ とよくに、明和6年〈1769年〉 - 文政8年1月7日〈1825年2月24日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。本名は倉橋 熊吉(くらはし くまきち)、後に熊右衛門。一陽斎(いちようさい)と号す。 』
『二代目豊国 : 豊国門下で養子となった豊重が、初代死後の文政8年(1825年)に二代目豊国を襲名したが、歌川派一門の中で物議を醸したという。通称「源蔵豊国」「本郷豊国」。別号に一陽斎、一瑛斎、後素亭。作品に「風流東姿十二支」、「名勝八景」など。
三代目豊国 : 豊国門下の歌川国貞が、天保15年/弘化元年(1844年)に二代目豊国を称した。上記と区別するため、彼を三代目歌川豊国とする。通称「亀戸豊国」。』
歌川豊国 - Wikipedia
栗崎道有
『栗崎 道有(くりさき どうう[1]、寛文4年(1664年)? - 享保11年10月20日(1726年11月13日))は、江戸時代中期の蘭学医。諱は正羽(まさゆき)。号は道仙。道有は栗崎家世襲の号で、「露」を意味するオランダ語dauw(英dew)に由来し、時に道宇とも書かれる。』
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林芙美子
『林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家。本名フミコ。山口県生まれ。尾道市立高等女学校卒。複雑な生い立ち、様々な職業を経験した後、『放浪記』がベストセラーとなり、詩集『蒼馬を見たり』や、『風琴と魚の町』『清貧の書』などの自伝的作品で文名を高めた。その後、『牡蠣』などの客観小説に転じ、戦中は大陸や南方に従軍して短編を書き継いだ。戦後、新聞小説で成功を収め、短編『晩菊』や長編『浮雲』『めし』(絶筆)などを旺盛に発表。貧しい現実を描写しながらも、夢や明るさを失わない独特の作風で人気を得たが、心臓麻痺により急逝。 』
林芙美子 - Wikipedia
吉良家の墓所
この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷・筑土八幡をへて、大正二年現在地に移ってきました。
幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定(よしさだ)・義弥(よしみつ)・義冬(よしふゆ)・義央(よしなか)の四代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花(うけばな)や笠部の墨飾突起(すみかざりとっき)は、どれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。
義央の石碑面に「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。
なお、昭和五十五年、義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。
◆上高田氷川神社
当、氷川神社は上高田一円の鎮守として享徳二年(1453)素戔鳴尊の御神徳を慕う土地の人々が、武蔵国一の宮氷川神社より御神霊を勧請し、お社を建てたのを嚆矢といたします。長禄年間(1457~60)太田道灌は、しばしば当社に詣で、松一株を植栽したと伝えられております。この松は目の高さ幹回り約4mの御神木となり大切に保護されておりましたが、昭和十二年(1937)枯木となりました。また、正保年間(1644~48)に代官野村彦太夫為重が社殿の修復をしたと江戸時代「武蔵風土記」に記されております。古老の記憶によれば、大正初期(1912~20)本殿の規模は一間四方にて覆屋の下にあったとの事であります。当時氏子は100戸、境内地の面積は470㎡(142坪)の小規模な神社でありましたが、大正十一年(1922)氏子より土地の寄進を受け、境内地を広げ現在の形態へと発展いたしました。大正十二年(1923)に至り社殿新築の計画が立案され、直ちに着工、大正十五年十月(1926)遷座祭が執り行われ、今日の氷川神社の姿がほぼ完成いたしました。また昭和十年以降、手水舎、鳥居、石燈籠、手水盤、狛犬等の奉献がありました。当神社は不幸な太平洋戦争による戦禍はまぬがれたものの、戦後の混乱の中にあって境内の整備はゆきとどかぬままでありました。幸い敬神の念厚い氏子により昭和二十九年(1954)には神楽殿が新築され、以後大祭の復活など各種の復興整備が進められました。昭和六十三年(1988)に宿願の社務所が完成し、上高田一円の鎮守として神威をととえるに及んでおります。
神楽殿
前に一度来たことがある。
2017/11/04 江古田散歩 10 上高田氷川神社/たきびのうた発祥の地/北野神社/紅葉川公園 - ovanの社会科見学
続く。