2022/03/05 東上野散歩 07 長龍寺/養蓮寺/龍淵寺/源空寺/浄林寺/鶴の湯跡

徐々に北西へ移動。
お寺が密集しているところはどうやら抜けたようだが、やはりお寺が多い。




◆長龍寺








◆養蓮寺








◆龍淵寺








源空

墓所が離れた場所があった。
このひとつ前の日記に載っている。
2022/03/05 東上野散歩 05 聞成寺/源空寺墓地/妙清寺/真覚寺/法善寺/光照寺/西光寺/西岸寺 - ovanの社会科見学


幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)墓

 江戸初期の町奴。本名は塚本伊太郎。肥前唐津の士族で、幡随院の住職向導に私淑(一説には向導の実弟、または幡随院の門守の子ともいう)し、浅草花川戸に住み、奉公人を周旋する口入れ業に従事していたといわれる。
 当時町奴と呼ばれる仁侠の徒が横行し、また、大小神祇組という旗本奴も市街を乱していた。やがて長兵衛は町奴の頭領となり、旗本奴の頭領水野十郎左衛門と張り合ったという。この辺は多くの伝説と潤色で後世の人々にもてはやされているため、つまびらかにはできない。
 慶安三年(1650)四月十三日、水野十郎左衛門のだまし討ちにあって没した。年三十六。
 昭和二年四月、東京都旧跡に指定された。


谷文晁(たにぶんちょう)墓

 江戸後期文人画家。田安家の家臣で漢詩人谷麓谷(ろうこく)の子である。
 名は正安、字は文晁のほかに子方、文五郎、号は画学斎、写山楼、文阿弥などといった。元.明.清画や狩野派、土佐派、文阿弥などといった。元・明・清画や狩野派、土佐派、文人画、西洋画など各派の手法を研究し画風を工夫し、関西文人画に対して江戸文人画壇の重鎮となった。門人として渡辺崋山(わたなべかざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)、高久靄厓(たかくあいがい)ら多い。文晁の妻や娘も画家である。
 文晁は松平定信に従って諸国を巡歴し、『集古十種』の挿絵を描いた。このほか『名山図絵』『本朝画纂』『公余探勝図(重要文化財)』『五柳先生図』などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ていた。天保十二年(1842)十二月十四日没。年七十八。
 昭和二年四月、東京都旧跡に指定された。


鐘楼


山門


入口


旧浅草北清島町

 本町は浅草清島町が新寺通り(現浅草通り)を境にして南北二つに分けられて誕生した。明治五年(1872)のことである。もとになった浅草清島町は同二年実施の市制改革に伴つてできた町で町名の由来はよくわからない。
 この付近は明暦の大火後、幕府の政策により寺院が移り街を形成したっことから新寺町と言われていた。震災·戦災にもかかわらず今なお寺院が多く、静かなたたずまいを見せている。
ー本町の見どころー
 坂東報恩寺の姐開きは一月十二日に行われる包丁始め。古式にのつとり鯉に手を触れることなく包丁で料理をする四条流家元の見事な手さばきは見ものである。源空寺には谷文晃、伊能忠敬、幡随院長兵衛、高橋東岡など歴史上の人物が眠る。








◆浄林寺









◆鶴の湯跡

銭湯♪
今はやっていない。
煙突が見えたのに銭湯らしきものがないので帰って調べたら「鶴の湯」という銭湯があったとのこと。

参考
鶴の湯(閉館しました) - 上野 (東京)|ニフティ温泉









続く。