2022/02/28 稲荷町散歩 07 シグマトラフィック株式会社/御徒町公園/仲御徒町駅/伊東玄朴住居跡/稲荷社/秋葉原駅

どんどん南下して東京メトロ日比谷線秋葉原駅へ。




◆シグマトラフィック株式会社

信号機がディスプレイされていた!
HPをみてみると『東京都内の交通安全施設の調査・設計を行ってまいりました。』とあった。
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御徒町公園


八幡神社

公園の敷地内にあった神社。


オブジェ



天下の子女の血をわかせたる熱と義と愛の人 藤村悟朗
~この処より平和の歌声高らかにあがるしるし、これ人間の愛、愛、愛!

wikiで調べてみた。
根岸大歌劇團(ねぎしだいかげきだん、1920年9月3日 結成 - 1924年3月 解散)は、日本のオペラ劇団である。通称根岸歌劇団。大正時代、東京の浅草公園六区の一角で根岸興行部が経営する劇場「金龍館」を根城に、いわゆる「浅草オペラ」の時代を築いた中心的存在として知られる。 』
根岸大歌劇団 - Wikipedia
こちらのメンバーに「藤村悟朗」の名前があった。


区割整理完成之碑


旧町名由来案内 旧御徒町

 この付近一帯は、徳川三代将軍家光(1623~1651)のころ徒士組の屋敷地であった。徒士組とは、徒歩組・歩行衆ともいわれ、徒歩で主君にお供したことにもとづく呼称である。江戸幕府の職制では若年寄に属し、その職務は、将軍外出の際の沿道警備・江戸城中玄関廊下の警戒であつた。
 この地は、江戸末期に至るまで徒士組の屋敷が多かつたことから、御徒町・徒町と呼ばれるようになった。明治五年(1872)、徒士組屋敷および周辺の武家屋敷などを併せ、御徒町は正式に誕生した。
 文化文政(1804~1830)のころ、この付近では朝顔、作りが盛んであった。今でこそ朝顔といえば入谷であるが、この地こそ朝顔作り発祥の地である。




なんじゃもんじゃの木



 この木は、俗に「なんじゃもんじゃの木」 と呼ばれ、朝鮮 中国にも分布していますが、日本では本州木曽川流域と九州(対馬)のみで知られている珍しい木です。 昔、青山練兵場にあった大木よりふやして、台東四丁目の荒沢鉄治郎氏が大事に育てたものです。
 木の高さは、十メートルをこえ、四・五月頃には、雪が降り積もったように花を咲かせます。
 珍木であるため異称が多く、ロクドウボク(六道木)·アンニャモンニャ·フタバノキ .ナタオラシなどとも呼ばれています。









仲御徒町駅

東京メトロ銀座線仲御徒町駅


近くにあった地図








◆伊東玄朴住居跡・種痘所跡



 この辺りに、蘭方医伊東玄朴の居宅兼家塾「象先堂」があった。伊東玄朴は、寛政十二年(1800)肥前国仁比山村(現、佐賀県神埼郡神埼町)で農民の子として生まれた。後佐賀藩医の
養子となり、長崎でドイツ人医師フランッ,フォン, シーーボルトらに崩学を学び、その後江戸に出て、天保四年(1833)当地に居を構えた。安政五年(1858)には、将軍家定の侍医も務め、その名声は高まり門人が列をなした。
 玄朴はまた、江戸においてはじめて種痘法を開始した人物である。種痘とは、1980年に世界保健機関(WHO)より撲滅宣言された天然痘に対する予防法。1796年、ィギリス人エドワード.ジェンナーが発明し、天然痘によって多くの人間が命を落としていたため、種痘法は西洋医学をわが国で受け入れる決定的な要因になった。嘉永二年(1849)、長崎でドイツ人のオランダ商館医オットー・モーニケが、佐賀藩医楢林宗建の子供に接種したのがわが国における種痘成功の最初である。
 江戸では、安政四年(1857)、神田お上が池(現、千代田区岩本町)に玄朴ら八十余名が金銭を供出して種痘所設立を図り、翌年竣工した。種痘所は、この翌年火災により焼失して
しまったため、下谷和泉橋通の仮施設に移り、翌万延元年(1八六○)再建された。同年には幕府直轄の公認機関となり、この後「西洋医学所」「医学所」「医学校」「大学東校」という変遷をたどり、現在の東京大学医学部の前身となった。
 幕府の機関となった種痘所の位置は、伊東玄补宅のすぐ南側、現在の台東 一日三十番地の南側半分、同二十八番地の全域に相当する。なお、台東区谷中四丁目四番地の天龍院門前には、伊東玄朴の墓(都指定旧跡) についての説明板が建っています。









◆稲荷社









秋葉原駅

ゴールの東京メトロ日比谷線秋葉原駅








稲荷町田原町御徒町あたりは巡りつくしたのではないだろうか。
ほんとにお寺が多いね。
全部は巡ってない。
高低差もなく、良い気候だったので散歩しやすかった。