2023/03/04 九道の辻




 この辻は、鎌倉へ十八里(約72km)、前橋へも十八里と旧鎌倉街道のほぼ中間にあたります。江戸道 ・引股道宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道大山街道鎌倉街道の道が、この地に分岐していたことから、九道の辻という名がつきました(「迷いの桜」に図があります)



◆迷いの桜

交番の陰になっているところに説明版があったがこの時気が付かなかった。

『昔、九道の辻の鎌倉街道の南角に、季節には見事な花をつけ、 往来の人の目を楽しませてくれる一本の桜の木がありました。人々からは、「迷いの桜」または「九道の桜」の呼び名で親しまれてきました。
 伝えられるところによると、元弘3年 ( 1333) 5月、新田義貞鎌倉攻めの際にこの「九道の辻」にさしかかり、どれが鎌倉への道であるのか迷ったので、一本の桜を植えさせて、 道しるべとしたものとされています。
 桜はその後いくどか植え替えられてきましたが、 大正のころ枯れてしまうと、長い間植えられることはありませんでしたが、昭和55年(1980) 10月、後の世に「迷いの桜」 の名を伝えようと、新たに苗木が植えられました。』

と、説明版にはあるとのこと。






◆九道の辻公園




 この公園は、東京都住宅局から提供いただいた憩の広場で、野火止用水の流れに沿った歴史的風土が再現されています。
 この美しい公園をふれあいの場として、 みんなで守り育てていきましょう。



 この公園の中には、昭和63年度東京都「文化のデザイン」事業による3つのモニュメントが「みず、武蔵野」をテーマに置かれています。
 作品名と製作者の方は次のとおりです。

水のかたち    速水史郎
武蔵野の石の精  岡本敦生
水と光の林    望月菊麿






野火止用水



 承応4年(1655)老中松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)が、 玉川上水開削の功績により玉川上水の水を自己の領地内に引く許可を得て開いたもので 「伊豆殿堀(いずどのぼり)」 とも言います。
 市内中島町西端の取入口からの水は、 九道の辻を通って野火止に至り、 大和田、志木地方の稲田を潤し、 新河岸川の樋 (いろは樋(ひ))を渡って宗岡(むなおか)村 (現埼玉県志木市)に達していました。
 この用水が開通した明暦のころは、この用水沿いには50数戸の農民が居住しているに過ぎませんでしたが、 その後移り住むものが増加し、 明治初期には 1,500戸がこの用水を飲料水にしていたといわれます。






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