2023/12/20 玉川上水・立川散歩 01 玉川上水駅/玉川上水駅前/米軍大和基地の碑/玉川上水駅前商店街/佼成霊園/桜が丘西公園/桜街道駅


24時間勤務アケで、西武拝島線玉川上水駅からJR中央線立川駅まで散歩。






玉川上水駅

西武拝島線玉川上水駅





こちらは多摩都市モノレール玉川上水駅







玉川上水駅

別のページで。
2023/12/20 玉川上水駅前 - ovanの社会科見学







◆米軍大和基地の碑



 かつてこの地は雑木林でありましたが、地域の発展を願って、昭和の初め工場が建設されました。この工場は、太平洋戦争のとき爆撃にあい、すべてが灰燼に帰しました。
 その後、朝鮮戦争のとき、米軍大和空軍基地が開設されました。この石碑は、そのとき基地正門に建設されたものであります。
 玉川上水駅前広場を整備するにあたりその歴史の証として、ここに移設したものであります。



大和空軍基地
昭和三年前月曾我開設
我々は世界の平和が總ての自由愛好國家の間に於ける親睦友好関係に対す努力を通して得られることを心に銘記して居ります。日本とアメリカ合衆国両国民の間に育てられた固い絆は平和のための永久の防波堤とあるでありませう。
我々は大和空軍基地將兵が当基地・大和町民とによって現在亨有されてみる尊敬友情を更に助長するよう總ゆる面に於で身を処して行くことを願うものであります。



東大和市のあゆみ
 東大和市に人々が住み始めたのは、 多摩湖遺跡群から発見された遺物によると、 今から約2万年前と考えられています。 そして約5千年前の縄文時代の中ごろには狭山丘陵のあちらこちらで暮らしが営まれました。 その後一時期、 人跡(じんせき)が途絶えましたが、7世紀ころからは、ふたたび人々が定住しはじめます。
 17世紀に入ると、青梅街道 (現在の桜街道)が整備され、人馬の往来も多くなりました。 また、野火止用水も完成し、17世紀末から18世紀初めにかけては、 新田の開発が進められました。
 明治4年廃藩置県が実施されると、 芋窪・蔵敷・奈良橋・高木・後ヶ谷(うしろがや)・宅部(やけべ)・清水の7か村(後ヶ谷と宅部の2村は明治8年に合併し、 狭山村となる) は、 初め神奈川県に属しましたが、 明治26年東京府編入され、 大正8年に大和村(戸数 770戸)が誕生しました。 村名は「大いに和すること」に由来しています。
 大正年間に始まり昭和2年に完成した村山貯水池 (多摩湖)の建設では、約160戸の家々が長年住み慣れた土地を離れることになりました。
 また、昭和13年から東京瓦斯電気工業株式会社立川工場(翌年に日立航空機株式会社立川工場となる)が建設され、無人の土地に突然大きな工場と、工場で働く人たちの社宅ができ、 村は繁栄しましたが、戦争中には空襲を受け多くの被害をだしました。
 昭和29年には町制(人口 13,052人) を施行し、大和町が誕生しました。 昭和30年代からは、団地や都営住宅が建設され、 住宅都市として急速な発展を遂げていきます。
 昭和45年には市制(人口45,902人) を施行し、名称を「東大和市」と改めました。 そして平成19年には人口8万人を超える都市に成長したのです。
 丘陵と平地の対照的な地形を有する東大和市は、貯水池を保全するための豊かな自然が残され、一方で都心の近郊住宅地として発展を続けています。







玉川上水駅前商店街










◆佼成霊園

『1951年5月4日に「会員各家の永遠に変わらぬ信仰心と、先祖を敬う心を高めるため、名実とも理想的な墓地」として、地方から移住した信者や、墓地の取得が困難な信者のために開園した。1957年7月5日には、万霊供養塔が除幕され、9月27日には、立正佼成会元副会長である脇祖・長沼妙佼が埋葬された。1967年に無縁共同墓地が、1974年6月20日仏舎利塔・納骨堂としての役割を持つ「聖霊殿」が完成し[1][2]、1994年11月22日に本堂が完成した。
2000年10月1日に立正佼成会の開祖である庭野日敬が埋葬され、2006年4月13日には庭野日敬の生誕100周年を記念して墓所が建てられた。2013年5月31日から永代供養墓として聖霊殿の改築工事が開始された[2]。2014年3月31日には永代供養墓としての合祀墓「光明陵」の建造が開始され、4月26日には聖霊殿と光明陵が完成した。 』
佼成霊園 - Wikipedia







◆桜が丘西公園







桜街道駅

多摩都市モノレール桜街道駅









続く。
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