2023/10/02 野火止用水緑地・清流の復活の碑


野火止用水緑地。



右隣下には野火止用水が流れている。



東やまと 20景 野火止用水
 市の南端を流れる用水です。 川越城主の松平伊豆守信網により、 承応4(1655)年に玉川上水から分水して作られました。 昭和49(1974)年に東京都歴史環境保全地域に指定され、 昭和59(1984)年に清流が復活されました。
 野火止緑地の木々の緑と、 流れとがあいまって、静かなぐつろぎの場となっています。








◆清流の復活の碑

野火止用水 清流の復活」
とあった。





◆用水工夫(ようすいこうふ)




 野火止用水は承応四年(1855)、徳川幕府の老中である松平伊豆守信綱によってつくられ、小川村の分岐点(現在の小平市中島町)から新河岸川まで六里 (約二十四キロメートル)を、四十日間で掘り通したといわれる用水路で「伊豆殿堀」とも呼ばれています。信綱は当時、川越城主であり新田開発を志しましたが、この一帯は水の事情が悪く作物もできず、冬などは土ぼこりが空に舞い上がるほどでした。
 そこで用水を作るため幕府より玉川上水から分水する許可を得て安松金右衛門という武士が工事にかかることになりました。
 金右衛門は、農民を中心とする工夫の先頭にたつて、夜も昼も工事を進め、用水を作り上げたそうです。
 逸話によると完成後、水は大地に吸い込まれ、流れなかったため、上役や仲間たちは「いんちきだ」と騒ぎだしましたが、殿様は金右衛門を信頼し、時が来るのを待ったそうです。
 一年たち、二年たち、三年目の秋、台風が吹き荒れたとき堀に水が流れ込んで来たそうです。
 この用水のおかげで、用水周辺の田畑がうるおい、米の取れ高は十倍にもなったそうです。
 また美術工芸品の設置されたこの場所の町名は新堀といいますが、この堀ができたとき付けられたといわれる新堀という小字名を採用したものです。
東大和のよもやまばなしからー
 この作品は用水工夫をイメージし、東大和市美術工芸品設置事業の一環として製作したものです。
平成四年度製作



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